マルコ福音書 15章16節~47節

2013.5.15 聖書を学び祈る会
[兵士から侮辱される](15:16~20)

 兵士たちにはイエスに対する憎しみはなかったであろうが、彼らの行為は、冗談であり悪ふざけであった。この品の無い嘲弄は、いつの時代も、真実に生きようとする者へとなされる。私たちは、主が受けられた愚弄を思い起こすことによって、忍耐する力が与えられる。

[十字架につけられる](15:21~32)

 刑場へ向かう途中、倒れたイエスの十字架を代わりにかつがされたのは、ちょうどそこを通りかかったキレネ人(アフリカ人)のシモンであった。彼は恐らく過越祭のために、はるばる旅して来た者である。名が記されたのは、後にキリスト者となり、皆の知る者となったからであろう。ローマ16:13のルフォスは、彼の息子だと考えられている。

[イエスの死](15:33~41)

 イエスの死が近づいた。昼であったが、全地は暗くなった。イエスの死に対して、自然も呼応したのである。   イエスは十字架上で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたが、これは詩篇22:1の苦難の言葉を引用されたものである。イエスはこのように、ご自身を、神から離反し捨てられた罪人として、死ぬことを選ばれたが、実際にその苦悩は、想像を絶するほどのものがその上にあった。神と一体である方が、人々の罪を身代わりに負い、神が見えなくなるという苦悩を味わってくださったから、私たちは赦されたのである。

 イエスが息を引きとられた時、神殿の垂れ幕が、上から下まで真っ二つに裂けた。これは厚さ12cmもあるものであった。この幕が裂けたということは、これより人々は、神殿で犠牲をささげることによって神に近づくという形には終りが告げられ、罪を悔い御子によって赦しを求める者は、誰でも、神はそのままで御もとに受け入れてくださるという、新たな道が開かれたことを意味する。

[墓に葬られる](15:42~47)

 イエスが死んだ時、アリマタヤのヨセフが遺体を引き取りに来た。彼は、イエスの死を決議した70人議会(サンヒドリン)の一人であったが(マタイ27:57、ルカ23:51参照)、この行為をするには、たいへんな勇気がいったであろう。しかし彼はイエスの死を見て、イエスがまことの神の救い主であったことを知り、葬りを申し出たのであろう。ヨハネ19:39によると、ニコデモも一緒にいて世話をしたと記されている。以前、人目をはばかり、夜イエスのもとに教えを乞いに来たニコデモもまた、議員の一人であった(ヨハネ3:1)。懺悔し、御もとに来る者について、来るのに遅すぎる「時」は無い。

 葬りの時、他に、マグダラのマリヤとヨセの母マリアもいたが、彼女たちの愛情は、こまやかであった。イエスが捕われた際、弟子たちは逃げ去り、ペトロでさえ主を否認した。ところが、終始十字架のそばにあって、イエスを見守っていたのは、女性たちであった。福音は、そして真の信仰は、実はいつもこのような目立ない、弱い存在の人たちによって、受けつがれてきた。