入口編
- Qキリスト教ってたくさんあるんですか?
- A
大きく分けて、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)があります。
プロテスタントにはたくさんの教派がありますが、ルーテル教会はその中で最も大きく、また伝統のある教会です。北欧などは、国自体がこの教派です。この名は、中世に宗教改革を行なった、マルティン・ルターにちなんでつけられました。
- Qどこの教会に行っても安心ですか?
- A
まずはじめに、いわゆる異端と呼ばれる偽物だけには、くれぐれも注意してください。(有名なところでは、旧統一教会、エホバの証人:ものみの塔、モルモン教などがそうです。彼らの共通点は、聖書以外の教典を持ち、そして救いのためにノルマを課します。それらは非聖書的です。詳しくは、牧師にお尋ねください。)
他はだいたい大丈夫ですが、教派によりそれぞれ個性がありますので、行って、ホッとできる教会とめぐり会えるなら、言うことなしですね。
- Q宗教は何を信じても同じではないですか?
- A
おそらく何か信じている人は、そのようなことを言わないと思いますが、どれを選ぶかは結婚相手を選ぶようなもので、それによってやはり、得る安らぎや生き方が違ってくると思います。ですから何か選ぶ時は、本当に慎重を期するわけです。また何も信じないと言っても、それでは、つきつめれば人間は死ねば終わりという、空しい考えと同じになってしまいます。
多くの宗教は人が天または仏や神を目ざし、そこに近づこうと、↑向きに心と生活が向かうように頑張ります。切磋琢磨、努力精進はすばらしいことですが、しかしどこまでやってもそれによって、完全な救いを得るとは言えないでしょう。
キリスト教は、人ではなく、神が私たちを愛し、救うために来たということを告げます。↑の努力ではなく、↓の愛が私たちを救うのです。教理としては浄土真宗にある部分似ていますが、歴史に基づく信仰であるという点が違っています。また倫理的な教えを多く含むことが特徴的です。
- Q聖書なんて、非科学的ではないですか?
- A
クリスチャンで、偉大な科学者も数えきれないほどおられます。大体、聖書は理科の教科書として書かれたものではなく、人間のいのちの意味と、それに対する神の愛、また計画を表わすために記されたものですから、科学とかとは全く別な領域を扱っている訳です。例えば恋人と海岸を歩くとき、月がきれいに見えるその心の部分を扱っているのです。その時、恋人同士の会話で、月がきれいに見える科学的な説明はしないでしょう。しかし、これは両方とも事実なのです。ですから聖書の天地創造などを読んで、これはおかしいと言うことの方がナンセンスです。
さて、それはさておき、聖書にはやはりどうしても現代の私たちの知識では納得のいかないことがあるのも事実です。その最たるものはイエスの復活です。しかしクリスチャンは、それを本当に信じています。だからこそ、私たちの復活もあると信じられるのです。死ねば終わりというのと、どちらが空しいでしょうか。
- Qクリスチャンでなければ救われませんか?
- A
そんなことはありませんが、キリストにおいてより他には、確信は与えられないでしょう。何教の信者であっても、その人は神によって命を与えられ、死んで同じ神さまのもとに立つのですから、全てのことは神さまが、最も良いようにしてくださるでしょう。ただ、神さまは私たちが生きている間から、どれだけ私たちを愛し、そのために犠牲を払ってくださったか、知ってもらいたいと強く願っています。そのことによって私たちと深い交わりをされたいと思っておられるからです。
神さまは、愛する御子イエス・キリストを世につかわし、それを罪深い私たちの身代わりとして死なせるほどに、私たちを愛してくださったのです。これは歴史において、本当に起こった事です。聖書は数千年にわたるこのことの預言と、そのことの成就を記録しています。この出来事を信仰をもって受け入れる者には、確信と平安が与えられます。
- Qクリスチャンになったら、何か生活が制限させられますか?
- A
クリスチャンならこれはすべきとか、してはならないとか、特に決まった定式のようなものはありません。むしろ細かな規定を設けるのは滑稽です。クリスチャンであろうがなかろうが、良心がとがめるようなことは悪ですし、善と思えることは誰でも進んで成すべきなのです。
そしてクリスチャンになっても、失敗や配慮のないことの繰り返しがあることも同じです。けれども、そこで私たちは、主イエスによる赦しと励ましを受けて、何度もやり直しをしていくのです。
- Q飲酒や喫煙についてはどうですか?
- A
身体を害さないかぎり、また周りの人の迷惑にならないかぎり、あなたの好きになさってよいのではないでしょうか。嗜好品ですし、他の人と一緒に嗜むのもまた楽しいことでしょう。(牧師の私も少々飲みます。)
但し、そう言わない教会もあることを、一言つけ加えておきます。
- Q家の仏壇とか墓とか、どうなりますか?
- A
いろいろ堅苦しい派もありますが、私たちは同じ考えにはなれません。唯一まことの神を信じ、それにのみ礼拝をささげることは、キリスト教徒の当然の行為でありますが、しかしまた、家族が大切にしている事柄やその気持ちを尊重することも大切なことです。私は家に仏壇があっても、いっこうに気にしませんし、むしろ家族が大切にしているなら、進んで手入れをしてあげるくらいなことをお勧めします。
知人の葬儀への参列などについても、同じことが言えます。遺族の方のいたみをよくわかってあげてください。焼香も問題ありません。また墓のことですが、時々墓前に行くことは当り前のことですし、丁重にお世話してあげることは自然なことです。しかしそれは故人がうかばれるためのものではありません。その人の霊は神さまのもとに行って、神さまに全部おまかせしてあるものだからです。
またクリスチャンが遺骨をどの墓に入れられるかの問題についても、これもまた全く気にすることはありません。お寺でもどこでも心配は要りません。家の都合でクリスチャンが別の宗教の仕方で葬りをされたとしても、いっこうに救いは揺らぎませんからご安心ください。神さまはそんなことで予定を変更されるような、小さなお方ではありませんから。
- Q何か今まで教会に持っていた、カタいイメージとは、少し違った感じがしました。
- A
そうですね。日本にキリスト教が入ってきたのは、キリシタン迫害令が解けてから、ピューリタン(熱心な敬虔派)の影響が大きかったですし、また初期の牧師達も、武士の出の人が多かったですから、そういった非常に厳しい精神と強く結びついていたのでしょう。そしてそれらのイメージがまだ少し残っているのかも知れません。
しかし私は、ごく普通の人が、ごく普通に信仰をしているというほうが、本当のような気がします。私自身も、いたって気楽に信仰させてもらっています。のんびりした気持ちで、自分らしく生きることができて、ホッとしています。また、そうした安心感があってこそ、本当に大切と思えることにも全力を注げるのではないでしょうか。
諸問答編
- Q宗教がなぜ戦争を起こすのですか?
キリスト教も他の宗教の国と、多くの人の血を流してきていませんか? - A
キリスト教徒の多くいる国、また国自体がキリスト教信仰を宣言している国が、過去に何度も悲惨な戦争を起こしてきたことは事実です。また多くのいろいろな宗教の国が、他宗教の隣国と戦いを繰り返してきたこともご存知のところでしょう。
しかし私は、それらは本当に宗教を純粋に守るための戦いであったか疑問を持っています。戦っている人たちは、戦争を正統づけるためや気運を高めるために、彼らの神(や仏)の名前を持ち出しますが、みな本音の部分では、相手の領土や資産、あるいは復讐ということが目的なのです。本当に信仰の厚かった人たちは、反戦を訴えてきました。(次の【応答編】で触れます)
ですから、宗教が戦争の本当の理由ではなく(それは名目で)、人々の心に巣食う悪い思いや限りない欲が、このような惨劇を起こすのです。
- Q信者になれば、また本当に信仰があれば、病気や災難から守られますか?
- A
そういうことを言う宗教が多いことは、実に残念です。キリスト教の教派の中にも、それに近いことを言う派も確かにあります。しかし私は、そんな風には全然信じていません。私たちがどんな病気になるか、またいつ死ぬか、不幸がふりかからないか、そんなことは信仰の有無に左右されないものです。それらは殆どいつも何のいわれもなくやって来るのです。
信仰とはしかし、それらどんな試練の時にも神が共にいてくださり、そしてそのことを信じることによって、慰めと励ましとを受けてゆくことであります。それは災いを避けるためのまじないやお守りとは、違うのです。
そしてまた信仰とは、私たちが幸せで何不自由なく暮らしている時にも、神さまを敬い、畏れ、愛して、神さまのみ心に沿うよう自らの生き方を求めてゆくことであります。
- Qでは、例えば病気の時、どんなに治るように祈っても、そのことによって治る事はないという訳ですか?
- A
いいえ、そういう理解も間違っています。祈ると祈らないとでは、やはりそれも全然違うのです。神さまは、私たちの祈る心と共に働いて、最善を果たして下さるからです。
さて、ここで「最善」という言葉を使うのは、この世は混沌としており、神さまのみ心のままに全てがなる完全な世界ではない、ということです。残念に思われるかもしれませんが、実際そうではないでしょうか。
しかし、それが少しでも神さまのみ心のとおり実現してゆくために、私たちは各々心を込めて祈るのです。また、祈りに押し出されて自分にできることを求めてゆきます。祈りは見えない神さまのネットワークで結ばれて働いているからです。だから祈りをやめないで下さい。祈りは力です。
たとえ何もできない人でも、祈りそれ自体が、神さまの働きのために用いられてゆくのです。
- Q信者でなくても教会に行っていいですか?
- A
以前にもそういう質問をされたことがあります。しかしそうすると、今教会にいる人たちは、一体いつから教会員になったのでしょうか。皆、初めて教会に来た日があったのです。そして教会は、何かあやしい新興宗教とは違いますから、一回行ったらおしまいだとか、つかまえられるとか、そういったことはここにはありません。ずっと自由です。すべて神さまの導きと、その人自身の意志に任せられています。もちろん私たちはもっと多くの人に神さまの愛と生きていくための指針を伝えていきたいのですが、しつこく勧めるのは私たちに合っていませんし、言わば自然の流れのままです。
ですから、たとえ導かれて教会員になったとしても、それから後どう神さまに仕えていくかも、一切が自由です。但し、仕える者には天国での神さまのお誉めが待っているでしょう。私たちは、そういった自由の中で、神さまの恵みに感謝し応答の生活をしてゆくのです。
- Q信者でなくても教会で結婚式が挙げられますか?
- A
そういう質問の電話も時々受けます。これは教派によって違います。私たちの団体は、結婚は宗教を越えてすべての人があずかることのできる、喜ばしい出来事であると理解していますので、どなたでも希望があれば、お受け入れしています。宗教が二人の結婚を決定・許可するのではないからです。
したがって、教会で式を挙げるということは、人の営みに対する神さまの祝福を祈るという形と意味を持っています。そしてその祝福は、新しく共同生活を始める二人が神さまの愛と神さまが自分たちに求めておられることを知ることなしには本当のものとはなりせんので、時間は短くてもそれに関する聖書の学びをしていただいてから式の準備をさせてもらうことにしています。
但し、それは何回こなすといったノルマではなく、二人の気持ちが真剣なものであればそれは伝わりますので1回でも十分となり得ます。
- Qキリスト教って、もし本当に正しい教えなら、どうして信者の数が増えないのですか?
教会に行っても不安になる時があります。 - A
私は正しいか正しくないかは数では計れないと思います。しかし、数に不安なあなたには世界ではキリスト教が最大の信徒数だということも付け加えておきます。日本では非常に少数派ということなのです。
それはそうと、やはり本当に大切なことは数が問題ではないことを覚えてほしいと思います。大多数が間違っている場合もありますし、同じように少ない者が正しい場合も間違っている場合もあります。正しければ増えるというものでもないし、正しくあるために勇気が必要で数が減ってしまうということもよくあるのです。数を誇るのはどこか欺瞞的です。
イエス・キリストは、私たちがたった一人でも神さまの御前に良心をもって立つことができるよう、勇気を求めておられます。ちなみに私はただの仲良し集団は嫌いで、少数派で通っているようです。
- Qキリスト教の戒律を教えてください。
- A
映画でも有名なモーセの「十戒」。イエス・キリストもそれを聖なる教えとして尊ばれ、その内容を、「唯一まことの神のみを神とし、愛し、仕えよ」、また「自分だけではなく、隣人を愛せよ」の二つに集約なさいました。しかしその内容は、キリスト教徒でなくとも、すべての人が守るように命ぜられていることではないでしょうか。
ですから私たちは、何か妙な特別な戒律に凝り固まるのではなく、ごく普通の人間でありながら、しかし神の前に恥じることのない歩みを求めて、隣人の幸せのため、霊的、精神的、また具体的な生活面で、困難や悪を打破し、向上を目指すのが大切なことではないかと思います。
そのために、私たちは神さまの言葉に耳を傾けるよう、神さまによって招かれ、また毎週集うのです。ですから私たちにとっては集会自体さえ一番の目的にはならないのです。もしそうならカルト集団と変わらなくなります。歴史の中では残念なこともありましたが注意が必要です。
応答編
- Q教会では、なぜ毎週礼拝があるんですか?
また信者さんたちも、熱心によく行かれますね。 - A
そうですね。でものんびりされている方もおられますし、また来たくても来られない忙しい方や病床の方もおられます。礼拝は行かなければならないというノルマではないことを認識してください。それは義務ではなく恵みです。休むのも自由です。それによる罰はありません。
また、お一人の方にも神さまが共におられます。けれども私たちは、できるだけ毎週共に集います。日曜を選んだのは、この日、イエス・キリストが復活されたのを覚えてと、また多くの人が休日で集いやすいからです。日時そのものが聖ではなく共同性に聖なるものが宿ると信じます。
「人が生きるのは、パンのみにあらず、神の口から出るひとつひとつのみことばによって生かされる」(マタイ4章4節)。人間は、神さまによって息吹を与えられた、特別な霊的な存在です。ただ肉体が生きるだけでは枯渇を覚えます。私たちは礼拝において神さまの愛と導きを繰り返し確認し、新しく生きる力をいただきます。
- Q私たちが、最も神さまの愛と導きを感じることができるようになる為には、どうすればいいですか?
- A
イエス・キリストは言われました。「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風(聖霊)は、思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」。(ヨハネ3章6~8節)
私はこれは神さまの霊による導きは誰にでも時としてあるのだけれど、その導きの霊が、その人の上にずっと留まることになるかどうかということは、その人によって違う、という意味のことだと理解しています。
それでは神さまの霊に、ずっといてもらうにはどうすればいいのかというと、それは神さまのみ前に自分が罪深い者であること(自己中心)をざんげし、神が自分の罪の罰の身代わりとして、救い主イエス・キリストをくださったことを信じることです。
- Qそれは具体的には、どうすればいいのですか?
- A
神さまはすべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられます。そして、その神さまと私たちとの間の仲保者となってくださるのは主イエス・キリストです(Ⅰテモテ2章4,5節)。主イエス・キリストは私たちに、信じて洗礼を受けるようにと言われました(マタイ28章19節、マルコ16章16節)。これが私たちに与えられる、救いのしるしです。天国に行けるのです。
洗礼は、とにかく受ければ救われるのでしょうか。いいえ、私たちは、どんな行ないによっても救われるのではありません。私たちは、ただ恵みにより、愛によって救われるのであり、それを信じる信仰によって、それを確かなものとして受けとるのです(エペソ2章8,9節)。洗礼は信じて従う者が受ける、その恵みのしるしです。
私たちは主イエス・キリストの十字架によって示された神さまの愛に、自分たちの身をゆだね、神さまの招きによって洗礼にあずかります。そうするようにと神さまがこの式を設定されたからです。
- Q洗礼を受けるまでには、どのくらいの準備や時間がかかりますか?
- A
人によって違います。イエスさまのことを知っており、どちらかといえば信じているのになかなか決心に時間のかかる人や、イエス・キリストの福音に出会って、すぐ信じて、さっさと洗礼式を迎える人など様々です。
しかし私は、自分が聖書に記されているとおり、神さまにそむいた自己中心的な罪人であり、救い主が必要な存在であると素直に認めるなら(聖書は、みんなそうだと言っています)、いつでもイエス・キリストの招きに応じていいのではないかと思っています。(イエスは、幼な子のようになれ、と言われました:マルコ10章15節)
洗礼は、自分があるラインに達したから受けるといったものではなく、神さまの愛を信じてこれにまかせるというものでありますから、いわば卒業式ではなく、来たい人はだれでも入れる、小学校の入学式みたいなものです。そしてそのゆだねる者を、神さまが必ずとらえてくださるのです。
- Q受けたくても洗礼が受けられない、たとえば猛烈な家族の反対があるとか、そういう方もおられるのではないですか?
- A
確かにおられると思います。家族の方が誤解を解かれて、譲歩してくださる時が早く来られるといいですね。まったく偽物のキリスト教が多いばっかりに(旧統一教会とかものみの塔とか)、いろいろな誤解や先入観を持たれているのかもしれませんね。他にも家の宗教を守るためだとか何だとかで…。
しかし私は最終的にはご自身で本当に信じるものに決心なさるのが一番よいのではないかと思います。そして家の宗教なり習わしに愛をもって接し、これを受容されるのがよいのではないかと思います。それは決して対立するものではないはずです。
イエス・キリストは地上で活動をなされた時、彼を信じた異邦人に対し、その人の宗教を捨てよとは一言も言われませんでした。私は洗礼を受けられた神主さんさえ知っています。その方は今も神主さんです。
- Qそれでは、宗教のグループ分けには、こだわらないということになりますか?
またそうすると、何が大切な教えになりますか? - A
最も重要なことは造り主である神を真剣に求め、また隣人を自分と同じように愛するということです(マタイ22章37,38節)。ですから、もしキリスト教会が悪に手を染めるなら本末転倒もはなはだしい訳です。しかし歴史にはそういう過去があったことも事実です。顕著な例ではナチスドイツにおける教会の迎合です。これは程度の差はあれ、他にも起こってきたことです。しかしそういう場合でも本当の信仰者は訴えてきたのです(ナチスに対してはボンヘッファーのように)。ドイツ教会は戦後、国を挙げてざんげをしてきました。
主イエス・キリストの第一の御心は、表面的なキリスト信者が増えることではなく、神さまと隣人への愛がこの地に宗教の違いを越えて満たされ、平和と人権が守られていくことに他なりません。しかしそのためには祈り合う群れが必要なのです。
- Q最後に、具体的な話ですが、教会員になると何かおつとめがあるのではないですか?
- A
おつとめは何もありません。神さまと隣人を愛するという掟の他には。しかし自発的な神さまへの応答として献金をめいめいが自分でよいと思われた分をしてくださるのは大変感謝です。また礼拝出席も何度も申していますが義務ではなく恵みへの招きです。生活についても健康やエチケットに反しない限り自由です。
多くの人は献金のことが気になるでしょうから触れますと、熱心な方は自発的に月の収入の十分の一を献げてくださるそうです(会計担当役員以外誰も知りません)。余裕のない方や、それほど熱心になれない方は、できる範囲やゼロでも構いません。神さまに対する想いとしてこれを為します。
当会ではこの中から牧師の生活も支えますがそうしない教会もあります。牧師もまた何ものにも拘束されず、ただ神さまにのみ拘束をされます。教会に対してだけでなく社会活動にも相当に熱心な牧師がいるのもそういう訳です。
福祉施設でのキリスト教講座編
キリスト教会関係の児童福祉施設職員たちとのキリスト教講座での信仰問答。
静岡県内の某施設にて2008年度後期講座より。(回答者:内藤新吾牧師)
- Qなぜキリスト教は、他の神様は認めないのですか?
- A
認めない教派が多いのは事実です。カトリックは違いますが(第二バチカン公会議以降)、プロテスタントの大半は認めないようです(牧師は特に)。私はしかし多様性を取ります。どの宗教も愛と平和に生きることを真剣に求める組織なら敬われるべきと思います。決して排他的になるべきではありません。ただ、本当に愛と平和を重視する宗教がどれほどあるかは疑問です。
ところで、なぜ多くの教会が他の神様を認めないかは、聖書には神が唯一まことの方であり、他に神をおいてはならないと十戒で記されているからでしょう。私はしかしそれは信じる群れに語られた言葉であり、他の人に押し付けたり排除したりするためのものとは考えられません。この件も含めてですが、様々な疑問に答えるものとして、『釜ヶ崎と福音』(本田哲郎/岩波書店)はお薦めです。
- Qクリスチャンの人は本当に「イエスが(神様?)最初の一週間で色々つくった」ということを信じているのですか?
- A
私はそんなこと信じていません。聖書は神様はどんな風に世界を造ったんだろうと何千年も前の著者が想像をしながら書いたものなので、時間の長さにしても出来事の順番にしても、また具体的な出来事の描写も科学と合うはずがないです。ただそれでも著者は神様に対する信仰告白として書いており、神様も人間に「あなたがたを大切に思って造ったんだよ」また「他の生き物も世界全体も大切にしてね」ということを伝えようとされて、その時代の限界があるのは承知の上で(科学知識も文化も言葉も)著者を用いられたのだと思います。
少し前の時代までは、聖書の書かれていることは全てその通りなのだと思う人も多かったのですが、今はそういう読み方の人は少ないです。もちろんそれでも狂信的な読み方をする人や教派もありますが、私はそれはおかしいと思います。
- Qイエスはどのように収入を得ていたのですか?
- A
十字架にかかって死ぬ3年前の約30歳になるまでは、父親のヨセフがしていた仕事を継いで、大工であったとあります。しかしその大工(テクトーン)は通常の大工を指す単語ではなく、石工(石切り)を意味し、当時のいわゆる3Kで、しかも不安定な日雇いの貧しい身であったらしいことが分かってきています。社会の底辺の生活の苦しさが、肌身でよく分かる人でした。また、当時のエリート指導層やまた彼をよく知っている同郷の人たちからは、彼の言動が素晴らしくてもそんな境遇の者が大した者であるはずがないとバカにして見られています。
最後の3年間は弟子たちを連れて宣教活動に専念し仕事を離れています。この間は行く先々で人々の好意にありつけた時に、弟子たちと共に食事や宿をお世話になっていますが、それは確実だったわけではないので貧しいヒッピーのような生活でした。野宿も頻繁にあったと考えられます。
- Q米国では、クリスマス停戦とか、日曜礼拝後に攻撃の命令を下したりと不可解なことが多いです。日本のキリスト教信者はどのように理解していますか?
- A
全く話にならないことです。毎日人を殺しておいてクリスマスだけは休むとか、礼拝時間だけは停止するとか、全くこれには神様も怒っておられることでしょう。仮に、礼拝はどんな時にも守られるものだとして(私はそうは思いませんが百歩譲って)、そこに兵士が来ることも拒まないものだとしても(それは理解されます)、そこで説教者は「こんな戦争は止めるべきである」ということもはっきり語るべきであると思います。そこに「教会(礼拝)にはいろいろな人が来るんだし、その人たちが喜んで帰れるメッセージを」なんて言う人がいてもそれはおかしなことです。
ところで日本の教会は、例えばイラク戦争にしてもアメリカの態度を批判する意見を持たなければ、とても「平和を実現する」という神様の教えに従うことは出来ないと思います。また、アメリカとの集団的自衛権を堂々と打ち出す政府与党の改憲提案に、それで大丈夫なのかどうか疑問を呈しない教会は問題意識が低く、宗教は心の世界だけですと逃げているようで納得がいきません。多くの教会は社会的な課題に対して鈍いというのが私の実感です。
教会が自分たちの心の平安を第一に求めているならば、平和は実現しないと思います。
- Q天国についてどのように理解したらよいのでしょうか?
- A
死んだら魂は消滅すると思うかその後の世界もあると思うかは各人の自由です。古来、多くの国々また人々は死後の世界があると思ってきましたが最近は違う考えの人もいます。勿論どちらも科学的に証明はされていません。ユダヤ教やキリスト教では、地上の旅路を終えても神様の御前で生き続けるという信仰を持っています。
尚、キリスト教では多くの教会は、クリスチャンになったら天国に行けると思っているようですが、私は、神様はそんな了見が狭い方ではないと信頼しています。教会に行ったこともなく他界した私の両親も、神様のもとで憩っていると信じています。まきばの家の職員も子どもたちも、他の方々も、どの宗教のままでも天国に行けると私は信じています。特定の宗教だけが天国の入り口のように聞こえる話は嬉しいものではありません。
- Q「神様」と「イエス様」は別な人(存在?)なのですか?同じ人なのですか?
例えば、「神様」に守られるのか、「イエス様」に守られるのか、どちらなのかが混同されていてよく分からないままでいます。 - A
「イエス」は、キリスト教では神が地上に姿を現わされたときの名前です。キリスト教では、父(神)・子(イエス)・御霊(聖霊)は三位一体の神と言いますが、そういうややこしいことを言うから、かえって混乱をします。教会によっては、「神様」だけでなく「イエス様」と祈ったり、また「聖霊様」と祈る教会もありますが、私はごく普通の感覚に統一させてもらっています。祈る時は「神様」一本で充分です。「イエス」は私たちのための身代わりとして十字架で死なれた方であり、それを感謝して受け止めれば充分で、無理して「でもイエスは三位一体だから神様と同じであって、どちらに対して祈ったらいいんだろうか」などと悩む必要はありません。「神様」があなたを守られます。これで統一してください。「イエス様」は、今は地上に見える形ではいませんので「神様」に統一してください。「聖霊」は、神様が遠くではなく、求める人の一人一人の心の中に共に住んでくださる形態をもった、新しい時代の関わり方ですので、これも「聖霊様」などと呼ばず「神様」で統一してください。
- Q三位一体ではないキリスト教があるようですが、それはどう理解すればよいのでしょうか?
- A
前問でも少し触れましたが、三位一体という言葉は難しいですから、あまり真剣に考えられなくて結構です。神様は時代によって私たちとの関わり方を三通りに取ってこられたと受け止めるのがいちばん簡単な考え方です。初めは必要な時に誰か預言者を捕まえてメッセージを授けた時代、その次はイエスという人間の姿を取って地上に現れ、罪の赦しのための十字架と復活のわざを完成された時代、そして最後にもう姿は見えないが求める一人一人の心の中に聖霊という形で共に住んでくださる時代となったのが今です。以上は信仰者の立場としての聖書からの解釈です。
三位一体を否定する教派といえば、主に三つの派が異端(偽物のキリスト教)とされています。旧統一教会、ものみの塔(エホバの証人)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)の三つです。その三つは、イエス・キリストの神性を否定します。イエスは預言者の一人に過ぎなかったと言います。そのくせ、旧統一教会教祖の文鮮明(故人)は、自分こそ本当のキリスト(救い主)で、神が姿を取った者であると言っていました。これはどう考えてもおかしいし、巨額献金をさせたことも異常です。残りの二つは、やはり布教活動にノルマを課すなど信者をマインドコントロールしています。
ところで、イエスの神性についてですが、クリスチャンでない人からは「それも信じるなんてどうかしているんじゃない?」と思われるかも知れませんが、こういう考え方は出来ないでしょうか。神様が人間のことを大好きで大好きで「直に会って話しがしたい、また彼らの苦悩に触れたい、そして彼らが安心して天国に帰って来れるよう、命の道を開いてあげたい、罪あるままで次の世界に入って来ることは出来ないが、その清算を私がすべて負ってあげたい、自分が身代わりの犠牲となりたい」そう思ってこの世に来てくださったということが、人類の歴史の中でたった1回だけ起きたと考えることは出来ないでしょうか。「たとえ人々に信じてもらえなくても構わない、放っておけなくて来ちゃった」ということが有っても不思議ではないのではないでしょうか。
- Qキリスト教と福祉施設とのつながりはどのように始まったのですか?
福祉施設は、キリスト教のバックアップを受けている所が多いため、どのようなきっかけで始まったのか知りたいです。 - A
日本でのルーテル教会で言えば、まずモード・パウラス宣教師(女性)が熊本に着任したのは第一次世界大戦後の間もない年で(1920年)、貧困に立ち向かう実践として社会事業が開始されました。彼女は本国から宣教師館を建てるようにと送られた寄付を全部、老人の家、子どもの家、婦人の仕事場の三棟を建てるのに回し、自らは子どもの家に同居しました。彼女はまたハンセン病患者地区が火災に遭った時も、まだ治療薬もなく病気が恐れられていたのも厭わず救護活動をしました。
関東では1923年に関東大震災の大惨事が起きた後すぐに災害を受けた子どもたちを上記熊本の施設(慈愛園)に迎え入れ、また東京においても直ちに支えを必要とする老人、母子に向けて救護活動を行ないました。こうして出来たのが東京老人ホームとベタニアホーム(母子施設と幼稚園)です。これらの始まりは純粋に悲惨な状況を見て、放っておけずに動き出したものでした。それは追いはぎに襲われた人を思わず助けた旅人の姿です(ルカ福音書10章)。
- Q人は神の子だと言いますが、私は両親の子だと思っています。どのように理解したら良いですか?
- A
皆、親の子です。人は神の子というのは神様に愛され魂を吹き込まれて生まれてきた子だという意味です。このことは仮に誰かが、その父または母がどこにいるか分からない、会ったこともない、或いは非常に残念なことで愛してくれないとしてもその人は決して独りではない、どの人もかけがえのない存在として神様に愛されていることを忘れないでということです。加えて自分を愛してくれる両親がいるなら、それは幸せなことです。
話は変わりますが、うちの妻は飼い猫を「娘よ」と呼びます。妻でさえそうなら、神様は御自身に似せて創った人間をどれほど大切に思っているかと考えたりします。
- Qクリスチャンの方々はクリスマスをどのように過ごしますか?
プレゼント交換などはしませんか? - A
イエス・キリストの生まれた月日は分かっていません。本当のところ、羊飼いが野宿をしていたことを考えると、あの地方で冬は有り得ません。12月25日はローマ時代の太陽神の誕生を祝っていた日でしたが、やがてキリスト教がこれを「まことの光」はイエス・キリストということで呑み込んだ形となったものです。
多くの教会では前夜の24日にキャンドル礼拝を行ない、その後ケーキと紅茶でお祝いをし、またクリスマスを過ぎた最初の日曜日にも礼拝後にお祝いの食事会をします。救い主が来てくれたことを感謝してお祝いするものですので、たまに「イエス様おめでとう」と言う人がいますが、私たちにとってめでたいということですのでそれは勘違いです。プレゼント交換は青年会や女性会の小さなグループ内で案内されて各自が用意する場合はありますが、教会の通常集会では教会員だけでなく不特定の方々が自由に集うものですので殆どしないはずです。
教会の本来的な姿としては、クリスマスよりも春先のイースター(十字架にかかられたイエス・キリストが三日後に復活された日、それは日曜日でした)のほうを大切にします。
- Qクリスマスが日本に浸透したのはなぜですか?
- A
教会に来ない人でも年の瀬の直前に寒い中ケーキを買って帰って、家族でプレゼントを交換し合ったりというのは、何となく1年の振り返りの感謝として自然に定着しやすかったでしょう。加えてサンタクロースの存在が相当に浸透しました。お父さんお母さんは子どもが眠るのを待ち、そっと枕元にサンタさんからのプレゼントを置くのに、何年生まで信じ込ませるかということにちょっとした楽しみを覚えたりして、そんなこんなで、本物志向の人もまた「せっかくだから1年に一度ぐらいは教会にも行ってみるかな」という感じで、キャンドルの灯る格別な雰囲気のイヴ礼拝に出席し、この日ばかりは多くの人と一緒に「きよしこの夜」や「もろびとこぞりて」を歌うのも風物詩となったのでしょう。
働き者の日本人で1年間働き詰めの最後のお休みの時というものあり、しかも南半球ではなく北半球だったから浸透したのではないでしょうか。南だと暑くてそんな雰囲気ではなかったと思います。
- Qアパートに突然たずねてきて、フリーペーパー(聖書入門のようなもの)を置いていくのはなぜですか?
- A
それはキリスト教の名を語る、異端(偽物)のキリスト教です。恐らく「ものみの塔(エホバの証人)」でしょう。他にも大御所の異端が2つありますが、それぞれ近付き方は異なります。気の毒なのは彼らは真面目な方々です。不真面目な人はそんなものに引っかかりません。そして伝道しないと救われないと信じ込まされているのでノルマとして活動をしています。家族をも顧みず、いや自分だけではなく家族をも救いに入れるためにとの優しさから、せっせと布教活動をします。まさにマインドコントロールのなせる業です。そして気の毒なのは彼らは平均的な正当派教会の信徒より熱心に聖書(教祖が勝手に書き換えた本ですが)の勉強をしています。初期の段階から脱会すると地獄に行くと洗脳されていますので(他の2つも)、自分で抜け出すまでの冷静な読み方が持てなくされており、脱会には家族の愛と覚悟そして綿密な事前計画が必要です。
- Qキリスト教の最終目的(目標)はなんですか?
- A
思いもしない質問ですが、私の答えは世界の一人一人が神様をその人なりに真剣に求めて生き、また隣人(倒された人/ルカ10章30節)を自分と同じように愛することです。それも最も大変なところから覚えることです。それと逆のイラク戦争ブッシュ政権を支持するアメリカのキリスト教右派は、とんでもないです。神様の願いは表面的キリスト信者が増えることではなく、神様と隣人への愛がこの地に宗教の違いを超えて満たされ、平和と人権、また未来の子らへの環境が守られていくことに他なりません。
- Q牧師さんの一週間の行動を教えてください。
- A
日曜に礼拝、水曜に聖書学習会を持ち準備もします。病気の信徒があれば見舞いますが他のことは牧師に任せられています。私は教会は神と隣人のためにあると思うので、集会に関する他は社会の根源的な問題にも時間を注ぎたいと願っています。
名古屋にいた時は野宿労働者支援と行政交渉。知多に移ってから活動引き継ぎと応援。こどもの家に通わせてもらった年もあります。次はこどもの家職員の願いであった児童養護施設の実現に向け、応援で近くに赴任、教区書記の立場も使って短期間お手伝いをさせてもらいましたが、出来た後は諸事情により余り関われなくて淋しいです。
他にここ数年は自民党改憲案に対する検証と反対活動もありますが、以上のことと並行して牧師となって17年、ずっと関わっているのが原子力問題です。環境面だけでなく、養子先祖父が死の商人だったこともあり国家の野望を疑っています。これについては市民の方々と、憲法問題と同じく学習会を重ねることや大勢の人を招いての講演会開催、および専門家を招いて知った事柄と現状とが合っていない場合には、4市・県・国に抗議申し入れや、公開討論会を求めての交渉など相当の労力と時間そして借金をしながらの活動となっています。明治大学が行なった浜岡地元4市民調査では、8割以上の人が地震と原発震災の心配をしています。国内外で危険を指摘する専門家も多いです。でも物言える地元民は限られるのです。
私は宗教者には一般人ではとても引き受けられない部分、すなわち様々な圧力で物言うことが出来ない人々の代弁者としての権力の監視人、或いは時には逮捕要員としての務めがあると思っています(仲間不足ですが)。しかし去年は牧師17年目にして初めて教会内にそうした活動に対する一部猛烈な反発に会いました。様々な利害関係も背景にあったようですが、会員同士の対立を避けるためそれ以降、大切と思ってやってきたことを皆と話し合わないようにした九ヶ月はこれまでの人生の中で最も辛く孤独を感じた時でした。あの時外に話せる人がいなければ倒れていたと思います。今はまた導きを得て皆で学習できるようになりましたが、ドイツの教会を見習いたいです。
- Q聖書にはたしか「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」(マタイ23章8節)とあったような気がしますが、教会ではその辺どうなのでしょうか?
牧師さんどうしはどう呼び合うのですか? - A
全くその通りですが偉い人ではないのに聖書を取り次ぐ役割のゆえに、神様の職務に対する敬いからそう呼ばれます。現状ではまだ他に適当な言葉が見つからないからでしょう。教会員から「牧師さん」と名前を外されて呼ばれるのも他人行儀ですし、しかしせめて牧師同士ではもう先生と呼び合うのはやめにしたほうが自然ですね。初任地では同年代や青年、高校生から、礼拝時以外「新ちゃん」と呼ばれましたが、それは例外的でした。
- Q事件や事故で突然に命を奪われること、これも神様のご計画ですか?
クリスチャンは、こういったことをどうとらえているのですか? - A
不条理な死を迎える方が沢山あることをとても悲しく思います。そんなことが神様のご計画であるはずがありません。ところが教会は長く伝統の中で、神様は「全能で、この世の全てのことを支配しておられる」と思ってきましたのでこういう事態に遭遇した時も「これも何か今は分からないけど、目的があるのだ」などと説明しようとしたりしますが、それも違うと思います。答えは多分、神様は「この世では全能ではない」ということです。こう言うと怒り出す人たちがいますが、でもそうです。神様のご意思どおりになる次の新しい世界が始まるまで、愛である神様は私たちと共に涙を流されているのだと思います。私の教会ではルーテル教会の式文から『使徒信条』などの定型文を除いて、この神の「全能」という修飾語を外してしまいました(「父なる」も)。そのことは団体で物議を醸したようですが元に戻すつもりはありません。正直に生きたいです。
- Qキリスト教がこの世に仕えるとはどういう意味ですか?
- A
時代が抱える最も大変と思う問題から覚え、組織として関わり、逃げないことだと思います。一人では無理です。内容は荒井献氏の言う「子どもを中心として弱い人々の命を守る」ということと同じです。それには二つの働きが必要です。一つは倒れた人を助けること、もう一つは人を虐げる者を止めることです。イザヤ58章6,7節にある二つの働きで、主イエスはそれを『世の光』『地の塩』と呼びました。実はこの聖書は二箇所とも「悪の軛を折る」「地の塩」のほうが、「パンを裂き与え」「世の光」より先に語られています。それはたぶん誰も関わらない領域が残されてしまわないよう、敬遠されがちな方を先に述べたのでしょう。しかしどちらも必要です。一日一善的な言い訳や身内の互助会で終わっては世に仕えたことにはなりません。
この春私は同派全国牧師に原子力問題について手紙を送り、最後に「教会は改宗者を増やすより、最も手の足りないところを支え助けることと、子どもたちの命を脅かすものを止めることに全力を注いでほしい」と書きました。昨秋の浜岡判決は様々な圧力で民意が封じられ、続けて国は浜岡からプルサーマル申請を出させることにより、関連して六ヶ所再処理工場を本格稼動前までこぎつけました(放射能がテストで流されました)。本当に六ヶ所も止まるのはあと一歩のところでした。あの時点で県内にもう一人二人、自由に動く宗教者がいれば変わっていたかも知れません。
私はルーテル教会は会堂の統合を進め(その方が教会も伸びるでしょう)、牧師配置も減らして人件費を子どもを中心とする他への支援に回し、また社会悪にも物言う群れになってほしいと願っています。余った力で何をするかではなく、子どもを守るため教会自身がどう変わるかということです。それらは一気には進みませんが私のいる掛川菊川教会は通いなれた会堂への愛着を捨て、社会の痛みを覚え支える教会となるよう現在の2会堂を一本化することを真剣に話し合ってきました。また現代社会の様々な課題を学び、そのための祈りを全体で出来るようになりましたが、それは生易しいことではありませんでした。場所にこだわり、また教会は社会とは関係がないと言う人たちもいたからです。
世に仕えるとは苦しいものだと思います。そして福祉現場も悲痛な苦しみがありますが、クリスチャンであろうとなかろうと、子どもを中心として人々の命を守ろうとしている人は皆、神様の意思を果たし、共に十字架を負っていると思います。
- Q聖書を分かりやすく読める漫画があれば紹介してください。
- A
旧約聖書の創世記(天地創造)から始まり新約聖書の使徒言行録(イエスの弟子たちの伝道旅行の記録)までの広範囲を1冊にまとめていて、無難な線で紹介してくれているのが『まんが聖書物語』(いのちのことば社)です。
だいぶ前に手塚治が描いた『聖書物語』がありましたが、描写が細かすぎて長い上、何冊本だったでしょうか安くはないです。最近では他に何とジョージ秋山が旧新約合わせて全6巻で『聖書』(幻冬舎)を刊行しましたが、これも安くはないです。ただしこちらは釜ヶ崎の秋山さんが(同姓)「出始めたけど、あの人物描写はなかなかいいよ」と2年前に言っていましたが私はまだ確かめていません。
マンガでなくてもいいなら講談社+α文庫の『イラスト版聖書物語一日一話』上(旧約)下(新約)が、割と聖書に忠実にまとめ、タイトルと聖書箇所の参照も付けて毎話をコンパクトに区切りよく紹介してくれています。