創世記「はじめに」(概論と1章略注)

                                                             2013.6.5 聖書を学び祈る会

[概論]
 創世記は、モーセ五書と呼ばれる旧約聖書の一部である。天地創造からヨセフの時代まで、自然に一つの区切りを持っているけれども、必ずしも最初から一書として独立していたわけではない。従ってこの書は、続く出エジプト記以下への導入として読まれるべき書である。具体的にはそれは、神が民と結ばれた契約ということを扱う。
 また、伝説的にはモーセの著作とされているが、部分的にはモーセの手になる古い伝承が含まれているとしても、全体的には、数人の人々によって数代にわたって書かれた幾つかの資料が、最後に一つの意図をもって編集せられたものと考えられる。(物語の記事が、そこに述べられているよりずっと後代のものであるとしか考えられない例;創世記12:6、22:14、26:33、35:20、36:31、申命記34:5~8、他多数)。(この書が、数個の違った資料から成ることを示す箇所の例;1章と2章の創造の記事の違い、6:19と7:2の箱舟に入った動物の数の違い。神の名が、あるところはヤハウェ、あるところはエルまたはエロヒームとなっていること、等々)。
 研究によれば、創世記は、J、E、Pの3つの資料が合わせられたものと考えられている。J(神の名ヤハウェ)は前9世紀、E(神の名エル、エロヒーム)はそのあとあまり時をへだてず、前8世紀の終わりにはJEは合併され、P(祭司資料)は前5世紀、エズラ、ネヘミヤ時代に形成されて、今日の創世記の形は、前4世紀までには整えられていたものと考えられる。それらの編纂が始まったきっかけは、前10世紀のソロモン王の時代にさっそく、ダビデの時代とは違って王をはじめとして信仰の堕落が始まり、そのことを憂えた「地の民」(アム・ハー・アーレツ)と呼ばれる人々が、神の御心を指し示すために文章化する作業を開始したことによる。彼らは職業化した宗教者たちではなかった。
 さて、以上、少し難しくなったが、創世記を読む上で注意すべきことは、この書はいわゆる純粋な、客観的な歴史
書ではないということである。もちろん歴史的な出来事も含むが、それらをそのまま記録にすることを目的としたものではない。それゆえこれはまた、科学の教科書として評価されるべきものでもない。これは、神の人間に対する愛の啓示の書であり、人間の命の意味、生きる意味が、信仰告白の形をとって表されたものである。

[1章略注]
 1:1「はじめに」・・・物語の時間的な問題を扱っているというよりも、むしろ物事の根源、根拠、土台について語っている。原文ではこの語は冠詞がなく(ヘブル語には冠詞がよく付くがこの語には無く、英語に直すとin beginningになる。theを付けている英語訳は不正確)、これは「そもそも」とか「根源的には」とかの意味で、創造の背景には神の目的や意志が働いていたことを示す文となっている。従って、これは科学的順序を示すものではない(原理主義的に読み、そう信じ込んでいる人達は、三日目と四日目の創造順序の矛盾など、どう説明するのだろうか)。
 1:27「神にかたどって」・・・地上における神の代理者としてとか、他にもいろいろの解釈がなされるが、神との交わりにおいて神の栄えを表わすものとして、造られたと解釈される。また、神の本性(ホンセイ)は愛であるので、それを表わしてこそ、まことに人は神の似姿と言われるべきである。
 1:27「男と女に」・・・神はご自身に似せて、人を男と女とに創造された(新共同訳は、この辺のところをぼやかした訳となってしまっており残念)。人は男も女も、共に神の栄光の似姿として造られている。またこのことは、神の内には、人間のいうところの男性性も女性性も、共に豊かに有していることを示している(神を男性と決めつけたり、父性にだけ限定することは、正しくない)。
 1:28「従わせよ、支配せよ」・・・好き勝手にしてよいということではなく、「管理しなさい、お世話しなさい」が真意だとの指摘が、近年やっとなされるようになった。