2014.4.23 聖書を学び祈る会
ユダの話のために中断されていたヨセフの話は、39章でまた元に戻る。ヨセフは奴隷としてエジプトに売られ、今までとはうって変わった生活をすることになった。
今までは裕福な家庭で、父に偏愛され、楽な生活をしていたのに、この日から、主人の財産の一つにされ、牛や馬と同様に扱われた。このようなとき、人は二つのうちの一つの道をたどるが、一つは神を呪い、自暴自棄になって、ますます不幸になる道である。もう一つは、不幸の中にあっても神を疑わず、必ずそこからも導きがあると信じて、祈りつつ努力する道である。ヨセフは後者を選んだ。
元々のヨセフの性格に、難ありということは否定できないことであったが、しかしそれでも、ヨセフは神を信じる者であった。また、いかに彼の性格が難ありだったとしても、奴隷になるまでのことはなかっただろうと同情できる。人間的な見方をすれば、そこまで悪だったとも言えない。言ってみれば、悪人の部類ではなく、ごく普通の正しい人の側に、一応は居たということができる。すると、次のような疑問が私たちの胸には浮かんでくるのである。つまり、正しく信仰ある者にも、災いは起こるのかという疑問である。
このことは、古来より今に至るまで、多くの者の悩むところであるが、事実、39章には、これらの不当な仕打ちが起きた前後にも、神が彼と共におられたということが四度も述べられている。最後には神がすべてを導いて、善きに働いてくださるとしても、これらはやはり、起きることが好ましいとは思えない事である。したがって、私たちは神に対し、信仰者にはすべての災いを取り除いてくださる神というよりも、苦難の中にあっても、共に歩み、励ましてくれる、またすべてを益と変えていってくださる、神を心にいだくことが、ふさわしいことであると思われる。ヨセフは無実の罪で監獄に下ったが、神に対し、また主人に対しても真実であろうとしたことが、かえってこのような結果をもたらした。しかしそこにも、主は共におられたのである。
ヨセフがポティファルの家、また監獄の中においても信頼を得、管理を任せられたことは、後に彼が大臣としてエジプトの上に采配をふるう時のための、小さなよき訓練となったと思われる。どんな境遇の時にも神を信じ、その時その時最善を尽くすことが、やがて大きな神の働きの一端を担うこととなる。
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