2013.6.12 聖書を学び祈る会
[2章3節]
七日目のあとの記述がないことについて(他の六日間に比べ、「夕べがあり、朝があった。第※日の日である」との記述がない)、アウグスティヌスは、「七日目に夕がなく、暮れることもないのは、それは神が、この日を聖とし、永遠にとどまるようにと、なしたからである」と言っている。それはそれで、信仰的な解釈であろう。聖書の民が、第七の日すなわち安息日を、神が聖別された特別な日とし、また大切に守ってきたことと、この七日目の記述の仕方が他の六日間とは少し違う終わり方をしていることとは、合致していると言ってよい。しかし恐らく、そんなに力説して、夕が七日目にはなかったと言い切る必要もない。アウグスティヌスも、また別な機会に紹介するが、勘違いの聖書解釈をしている時があるので、絶対視することはない。
ユダヤ人の発想では、世界は無から造られたのではなく、1章2節にもあるように、混沌から神が秩序立てて世界を整えられたと信じていた。同節を見ると、初めから地があり、また闇があったと信じられている。したがって、ユダヤでは時間の流れは、最初に闇があって後から光が与えられたから、一日は夕方から始まり、夜が明けて朝となってから一日の後半が続くとされる。2章3節は、ただ単純に、「夕べがあり、朝があった。第七日の日である」との記述が、神が第七の日を聖別されたことのみに焦点を絞りたかったから、省かれただけのことであろう。つまり、大切な日の記述はカッコよく終わりたかった、同じ記述に揃えれば間抜けな記述になってしまうから、ということだと思う。
聖書の一字一句を、全てにおいてあまり神聖視し過ぎると、狭量的な読み方に陥ってしまい、他宗教や文化に対して排他的になったり、また、隣人に対しても話の通じない偏屈な態度を取ってしまったりすることにもつながるので、私たちはバランスの取れた聖書の読み方が必要だろうと思う。ショックを受けるかも知れないが、聖書は絶対的な書物ではなく、神から霊感を受けて書かれてはいるが、時代ごとの限界を有しており、永遠に変わらぬ完全無欠の書というよりは、編纂されたその時代ごとの、神を信じる民の信仰告白の書と言うべきものである。中にはいろいろな矛盾や、問題となる表現も所々出てくるが、それらを差し引いてもやはりスゴイというのが聖書である。
[2章18節]
1章で六日目に人間が創られた記事があるのに、また2章でも記事があるのは、元になった資料が別々だからである(1:1~2:3はP資料、2:4~2:25はJ資料)。
ところでこの2章の「彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(口語訳)も、「彼に合う助ける者を造ろう」(新共同訳)も、共にマズイ訳である。聖書協会の翻訳者集団が、男性優位の考え方から抜け出られない人たちであるとの批判を免れ得ない。
「助け手」「助ける者」と訳された「エーゼル」は、聖書では8割がた「神はわが助け」との文で出てくる語で、つまりそれは間違っても「神はわが助手」とは言わないわけで、「かけがえの無いもの」「無くてならないもの」の意味での「助け」であって、アシスタントであるかのような誤解を与える訳はマズイ。
また「彼に合う」の「合う」という語も、これはシンバルなどの楽器が「向かい合う」とか「響き合う」という時に使うのと同じ単語で、これらを考えると、「彼と向かい合う、かけがえの無い存在を造ろう」という内容の訳に変えてほしい。ここで示されたのは、アシスタントではなく、むしろパートナーである。
[2章24節]
「父母を離れて」とある。少なくとも精神的に独立して、新家庭を築くのである。親離れ、また子離れが大切である。「嫁入り」や「両家の結婚」などという発想は捨てたほうがよい。また「一体となる」と訳された語は、直訳すれば「共に生きる」という語であり、その本来的な意味を忘れてはならない。