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創世記24章

2014.1.15 聖書を学び祈る会

家庭は、神の宮である。結婚は、私事であって私事でない。アブラハムは、堕落しきったカナンの人々の間には、わが子の嫁にふさわしい者はいないと断念した。そこで彼は、少しでも主への信仰に近い者を選ぼうとして、親戚のもとに使いを出す。彼も、使いも、そこに必ず神の摂理が働くことを信じて祈った。それゆえにリベカもまた、信仰によってそれを神の摂理と受けとめることができたのである。

[6節] アブラハムが嫁の方を息子の方へ来させよと命じたのは、神がこの地に、自分を故郷から導き、連れ出されたのであるから、という約束のゆえに立った、信仰の姿勢であった。

[9節] 腿の下に手を入れるのは、誓いの形式であったと考えられる。アブラハムは老境に入っており、しもべ(召使い)の帰って来るまで、生きていることができるかどうか危ぶんだので、特に神聖なこの形式がとられた。5節のしもべの質問も、このことを意識してあったことをしのばせている。

[14節] この老僕の祈りは完全ではないが(自分の側で条件設定などをしてしまったり・・)、しかし、神はその切々の情をあわれまれた。また、神は、アブラハムの信仰による望みのゆえに、これをきかれたのである。祈りがきかれる、きかれないは、単に祈り手だけの問題ではない。その折々の、最もよき手段を神はとられる。人にはそれは測りきれない。

[31節] リベカの家は、おそらく父がすでに亡くなっていたのであろう。兄ラバンが家を継いでいたと思われる。ラバンのこの言葉はしかし(使いを家に招き入れる言葉)、妹のように親切一方から言ったのではなく、欲も混じっていたであろう。彼の欲深いことは、のちに甥のヤコブが来た時に明白に現れる。

[33節] 忠実な老僕の姿。これは、民主主義の世から見れば、おかしく感じられるかも知れないが、闘争と怒りと憎しみに明け暮れしている現代の人たちより、はるかに幸福であり、自由である。奴隷の制度はもちろんよくないが、人と人の間に愛と信頼がないことの方が、もっと恐ろしい。

[54節] その夜の饗宴の、どんなににぎわしかったことであろうか。嬉しい時には大いにこれを祝い喜ぶことは、神が人間にゆるされた賜物である(伝道者の書:コヘレトの言葉3章12,13節)。

[55~59節] アブラハムのしもべが、リベカと出会いその親元を去るとき、それは出会ってからまだたったの翌朝であったが、主人から命じられたように嫁を一緒に連れ帰ろうとする。十日ほどだけでも引き止めようとする家族に対し、リベカはまだ見ぬイサクのもとへと、一緒に旅立ちますと答える。そして家族と別れ、すぐさま出立をする。信仰者はこのように、すぐ自分自身の決断ができる、打てば響く存在でありたい。

創世記23章

                                                       2014.1.8 聖書を学び祈る会
若いときから白髪になるまで、いやそれ以上の長さを共に生き、百年の歳月を共に苦しみ、共に楽しんできた妻との別れ。その悲しみは深かった。特に、この世の人々とは違う大きな決断を幾度となく経験し、それに耐えてきてくれた連れ合いを失うことは、アブラハムにとって並々ならぬ淋しさであったろう。

[4節] アブラハムは、半遊牧の旅人、寄留者であったが、神が与えると言われたこの地方は、必ず彼の子孫のものになると信じた。それで、ここに墓地を求めた。墓地は、そこに永住する者の持つものであった。

[9節] アビメレク王まで遠慮するほどの勢力あるアブラハムが、力で一地方を占領しようとすればわけなく出来たであろうのに、かくも平和裡に、しかも極めて狭い土地である墓地を買い取ったということは、二十一世紀に入った今日でも、国力発展のために武力が簡単に使われることに比べて、実に驚くべきことである。強権を発動する国家は、恥じ入らなければならない。

[11節] エフロンの言葉は、東洋流の儀礼である。狙いは見え見えで、代価は、初めから高くもらうつもりでいる。十分な代価をお払いしますから、とアブラハムに何度も言わせた後で、それならと提示する額には、もう変更の可能性はあり得ないからである。

[15節] 銀1シェケルは11.4グラムであるから、四百シェケルというと、約5キログラム。採掘や精練があまり発達していない当時にあっては、その価値は今の千倍ぐらいにもなろうから、お金で言えば、今の数千万円もの値段である。相手を見た、あくどい商売と言える。(しかもエレミヤ32章9節の値と比較して見よ。そこではある程度まとまった畑の広さに対して銀十七シェケルである)。態度は丁重ながらもその実、あり得ないような高値をふっかけ、二度とない機会に暴利をむさぼろうとするエフロンに対して、しかしアブラハムは、言われた通りに支払いをする。墓の問題は、今日も昔も似たような状況がある。

[19節] アブラハムがなした行為は、愛する者への愛(イト)おしみであるというだけでなく、その地が神の約束された地であるということの象徴でもあったということにおいて、その意義は大きい。しかし、聖書は墓そのものを、絶対視してはいないということを、私たちは注意しておきたい。私たちの最後の行き場所は、墓ではなく天の国である。モーセは、モアブの地でカナンを望み見ながら死に、そこに葬られたが、モーセの墓を知る者はないと、書かれてある(申命記34章)。それでもいいと、聖書は記しているのである。行き過ぎに気を付けたい。また、墓地のことは、本人が生きている内に、残される人のことも考えて定めておくことが、より望ましい。今日では自然葬も認められている。

創世記22章

                                                         2013.12,18聖書を学ぴ祈る会
サラとハガルに関わる家庭の不和を経ながらも、それが一段落し、アブラハムが落ち着いた生活をするようになったとき、神は彼を試みる。神はアブラハムに「あなたの愛する独り子を献げよ」というむごい黙練を与える。
 聖書はそして驚くことに、アブラハムはその次の朝早くには、身仕度を整え、イサクと御供の者を連れ、命じられたモリヤの地を目指して出立をしたと記している。
 何という覚悟の早さ、決断と行動カヘの意思の強さであろうか。このカはどこから来るのだろうか。そして12章や20章で見せた、サラを自分の妹だと他国の王に言ったときの、彼の臆病さとの違いはどこにあるのだろうか。また、イサクヘの愛情は、そんなに深くはなかったのだろうか。それとも、神の命令だからと、愛する者への思いを断ち切ることが、どんなに家族を愛していても求められている信仰なのだろうか。そういった様々な疑問が、この記事からは次々と起こってくる。

この記事をどう読むかによって、キリスト教は人々の目に、人間の情を大切にはしない恐ろしいものにも、あるいはまた失意にある者への希望につながるものにもなる。私自身も、ある教会の牧師より(母教会ではなく他教会の)、いわゆる「神のためには家族をも献げなさい」といった内容の説教を聞いたことがあったが、それはあまり福音とは聞けないと私には感じられる内容であった。しかし本当のところ、どうなのだろうか。
 もちろん、神に対する敬愛なしには、アブラハムはこの決断はできなかったであろう、しかしそれは、子への愛情を断ち切ることであったのかどうか。冷徹に涙を消し去ることか、神の御旨であるとするならぱ、それは恐ろしい新興宗教のようですらある。しかしそうではなく、アブラハムが最終的に神に従うことができたのは、愛情を捨てるというのではない、もう一つ別な、彼をその命令に従わせるに足る、彼を勇気づける十分な理由・根拠かあって、そこに賭けることができたのではないか、という見方もすることができる。そしてそれがおそらくはこの記事についての答であると、言うことができる。

新約聖書ヘブライ人への手紙11章19節がその答を示してくれている。また、同じ11章11~12節もやはり、それを補足するように、アブラハムが神によって与えられ抱いていた信仰が、復活の信仰であったことを記している。老齢で、死んだも同然の身体から、息子イサクが生まれることを信じた信仰。また息子を献げよと命じられたときも、たとえそうしても神は必ず生き返らせることができると信むた信仰であった、決してロボットのように愛する感情を捨てたわけではない。自分がどれほど子を愛しているかを御存知の神が、白分にあなたの信仰を表明せよと言われている。アブラハムはそれを、神がこれまで彼に示してきてくれたように、「あなたは死んだ身体をも甦らせてくださる方です、なおさら私が自分の命以上に愛する子ならば必ずそうしてくださいます」と、信じ切って告白したのが、この出来事の終始であったのではないかと考えられる。
 復活の信仰は、主イエスの十字架を通して、私たちのものともなっていることを感謝したい。

創世記20章、21章

                                    2013, 12, 11 聖書を学び祈る会
[20章]
 20章の記事は、12章後半の、エジプトにおけるアブラムの失敗の事件とよく似ている。創世記は、いろんな資料が混ざり、いりくんでいるが、どちらのこの資料とも(E,J)、P資料のいう年齢のことを、知らなかったものと解される(90歳にもなろうという老婆を、美人として王が召し入れる、というのはおかしい)。おそらくは、聖書が地名を別々に記しているとおり、別々の場所で起きた出来事であったのではあろうが、本来、時期的にはもっと早い章に組みこまれるべきだった資料が、今回の記事のほうは、かなりあとの時期に入れられてしまったという見方が適切であろうと考えられる。

 さて、サラがアブラハムの本当に腹違いの妹であったにせよ、あるいはまたもしかすると彼が自分の世話する奴隷たちも含めて家族すべての身の上を案じたのであったにせよ、アブラハムが、彼女を自分の妻と言うことができなかったのは、そこまで神の守りを信じ切れていなかったということでは、彼の大きな落ち度・欠点であったと言うことができる。聖書はアブラハムが、二度もそうした判断をしたことを記しているのである。

 聖書に出てくる人物で、欠点のない人間はいないが、しかし実に、神はこのような不完全な人間を、導き、そしてその祈りをきかれるのである。人間は、欠点のあるなしによって救われたり滅んだりするのではないが、神と向き合い、その善と真理に導かれて、この世の旅路を歩んでいくことができる。

 ・20章12節・・・このような半姉妹との結婚は、古い時代には許されていたらしい(サムエル下13章13節;アムノンとタマルの例)。しかし、レビ記(バビロン捕囚中に編纂)においてはっきりと、禁じられるに至る(18章11節、他)。

[21章]
 ハガルとイシュマエルが、荒れ野へと追放される箇所である。出来事の発端は9節にある、イシュマエルがイサクを「からかっている」のをサラが見て、腹を立てたことにある。イスラエルでは、乳離れの日は二歳ほどである。またイシュマエルの年齢も16章から計算できるが、イサクとイシュマエルの年齢はそれぞれ、2歳と16歳と想定される。年齢差から想像して、「からかって」とあるのがどの程度の具合なのか、そんなにひどい様子だったとも思えないが、そもそもサラにとって奴隷の子が対等に接することが許せなかったことから、ちょっとした程度で怒りが爆発したものだろう。どうもサラの性格はキツくて、あまりいい人には思えない。

 いずれにせよ、最終的にサラが下した決定は、子どもどうしで起きた問題にしては残酷過ぎる。それでも神がアブラハムに「すべてサラが言うことに聞き従いなさい」と言われたのは、もうハガルとイシュマエルをサラのもとから離れさせる時だと、考えられたからであろう。荒野で水も無くなり、ハガルは子が死ぬのを忍びないと、離れて座り泣き、子もまた死を予期して泣いた。ハガルがいったい何をしたと言うのか。むしろ長く堪え忍んだのはハガルであり、度を越えて非道な態度を取ったのはサラではなかったか。

 しかし神は、人知れずのところで、その虐げられた者の側に立たれる。神は、子の泣き声を聞かれた。胸はり裂ける母の悲しみに応えられた。救いの御手を伸べられた。神は確かに、小さき者を捨て置かれることはなく、共におられる。

 イシュマエル(「神は聞かれた」の意)はのちの、アラビヤ人の祖となる。

創世記19章

                                                    2013.12.4聖書を学び祈る会

ソドム・ゴモラの地方は、非常に豊かな、美しい地であった(創世記13章10節)。しかし、環境に恵まれている

ということは、必ずしも、人々の生活そのものを、美しく正しくするということとは無関係である、ソドム・ゴ

モラは、それを悪用し、倫理的非常に乱れた町となったが、これらに起こったことはまた、現代に対する警告で

もある。

しかしこのような、罪の世界にあっても、執り成しの人となって神との間に立ったアブラハムの役割は大き。

現在でも、世界は、罪を悲しみ、心を痛めて祈っている少数者である教会の、執り成しによって、かろうじて赦

されているのかもしれない。地の塩、執り成しの祭司としての教会の使命は重大である。

[19章8節] ロトのこの「娘たちを差出しますから」との言葉は、神から遺わされた客人を守ろうとする気

持ちは分かるが、しかしいくら何でも、今の時代から見れば、ひどすぎる言葉である。おそらく本人には、その

ひどさの自覚はない。これはそれだけ、当時の男女差別が大きく、女性は正式人数にも数えられないぱかりか、

ひどい目に合わされても、それは男性にとって共感の痛みとしてではなく、財産の侵害程度ぐらいにしか受けと

められていなかったという、時代全体の風潮を垣間見させる。たまたまこの時は、客人が天使で超人的な能力に

よりこの惨劇は防がれたが、同じような状況の中で、悲惨な緒末を迎えた場合も聖書には記されている(士師記

19章22~25節)。聖書にはこのような、時代的な制限のある価値観が沢山あり、現代でそのまま同じよに

して受け取る訳にはいかないことがある。

[19章21節] 神があえてソドムの滅亡を見とどけようとする心の中には、何とかて更正させたいという

気持ちもあったのであろう。いつくしみ深い神は、天のかなたから滅亡を見下すのではなく、現場まで行って救

えるものなら救いたいと考えられたのであろう。

[19章28節] ソドム・ゴモラの滅亡は、神の刑罰として理解されるが、どのよう自然現象としてそれが

起こったかについては、現在のところ二つほどの説がある。まず、火山の爆発説。これはヨルダンから紅海へと

続く一帯が、火山地帯であることから。他には、ガスの爆発説。この地は地下に石油層があり、今でも時々死海

の南部では、アスファルトが浮かんでくることがある。だからこの惨劇は、そこから出る天然ガスが爆発したも

の、と想像することもできる。歓楽の町イタリヤのポンペイが、紀元79年に、火山の爆発によって一瞬のうち

に壊滅したという事件もあるから、これらのことは起こり得ないことではない。ちなみに、ソドムの町は男色の

街であったと言われる。英語でソドミー、独語でゾドミーというのは、これからきている。現在これらの町のあ

とと考えられる遺跡は、死海南部の比較的浅い部分の底に残っている。

創世記18章

                                                    2013.11.27 聖書を学び祈る会
イサクの誕生については、先の17章にも最初の予告がなされている。歳老いたこの身に、赤子が生まれましょうかと、ひそかに笑ったのは、この18章のサラだけではなく、アブラハムも17章にて全く同じであったことを、なぜか教会ではあまり語られて来なかった。男性優位の歴史の中で、都合が悪いと感じられたことは、触れたくなかったからだろうか。しかし実際、アブラハムは笑った。しかし、それがそんなに悪いことだろうか。アブラハムは、正直に感じたままが、思わず表情に出てしまっただけである。サラもまた全く同じであった。おそらくは、ユダヤ教もキリスト教も、この18章でサラが笑ったということを、単純にそのまま彼女の不信仰と結びつけたいがために、できるだけ17章の方の記事は伏せようとしたのであろう。

 もしそうだとしたら、宗教が、私たちの自然な感性を否定しようとするのは、好ましいことではないし、また非常に恐ろしいことである。もしそういうことがあるとするなら、改められなければならない。そして、神のイメージを、そんな小さなことでも目くじらを立てられるような、狭量的な方と思わせるようなことは、残念なことであろう。実際、神はどういう方であったか、この17章と18章から、もう一度見てみたい。

 17章で、神はアブラハムに対して、そのひそかな笑いを何らとがめてはいない。むしろそれどころか、そう、その不思議な、考えられないようなことを行なうということで、生まれてくる子の名前を、アブラハムの思わず取った態度を記念して、「笑う」という名にしなさいと言われる。これは神のユニークさである。神は、アブラハムに対しては寛容で、サラに対しては厳しいのだろうか。そうではないだろう。18章での読み方も、伝統的なものとは違うもう一つの読み方をしてもよいものと考えられる。

 つまり18章13,14節の主の言葉は、彼女に対する叱責というほどのことなのではなく、これからなすことは確かに、人の常識では考えられないことだということを、むしろもう一度はっきり意識させるようにして、また神ならではの愛想を込めて、少しいたずらっぽく語られた言葉であったと見ることはできないだろうか。つまり、これからなすことは、人が「笑っちゃう」ようなことなんだよということを、17章のアブラハムの態度のときと同じく、サラに対しても、全くその通りだよと、神はこの夫婦の反応をみて楽しまれたのである。

 心を見抜かれたサラは恐怖した。しかしのちにそのことすら、楽しい思い出に変わるだろう。神はそう思われて、彼女を少し追及された。それだけのことなのである。決して怒っていたのではない。神を定規で引いたようなカチカチのイメージでとらえるのは良くないだろう。従来通りのままの読み方は、私には神の愛情や楽しさが隠れてしまい、面白くない。神もまた私たちと言葉と心のキャッチボールを楽しみたいと、待たれているだろう。私たちは神の子とされている。人の親子でも、いろんな心や言葉のキャッチボールを楽しむ。それでこそ親子だ。神を裁判官のようにだけイメージするのは、神を淋しくさせることではないかとさえ思う。あなたはどう感じるか。

 アブラハムは笑い、サラも笑った(それは苦笑によってであったが)。しかし生まれてくる子と共に、本当の喜びの笑いを経験するとよい、わたしも一緒にそれを喜ぼう(笑おう)と、神はこの子の名前を付けてくださったのではなかっただろうか。私はそう受けとめて、神の親愛を本当にありがたく感じている。

 18章後半部もまた、非常に神のフレキシビリティー(柔軟さ)と、神がどれだけ私たちとの言葉と心の交流を望まれているかを、物語るものだと思う。審きに向かうソドムとゴモラの街に関することでさえ、神は6度にもわたるアブラハムの願いを聞き入れられる。私たちの知る江戸時代の城主などなら、即、討ち首になる要求である。大へんな問題についてでさえ、神は私たちとの関わりを喜ばれる。それならば、尚のこと、私たちは日常のいろんなことについて、神との語らいを大切にしていきたい。神はそれを待たれている。

創世記17章

                                                 2013.11.13聖書を学び祈る会

アブラムが99歳になったとき、主はアブラムに現われて、祝福と契約の言葉を語られた。彼の正妻のサライから約束の子が生まれること、その子孫を増やし繁栄させること、カナンの土地を所有地として与えること、そしてそれゆえに子々孫々、神との間の契約を守るようにと言われた。また名前をそれぞれアブラハム、サラと改名させた。
 守れと言われた契約の内容は、割礼の儀式であった。割礼それ自体は、倫理的や道徳的なものであるとは、到底考えられないものである。しかしそれが守るべき契約であると言われたのは、上記の祝福が神の約束により成されたものであることを、忘れずに、いっも思い起して生きるために、残るしるしとして施すようにと命じられたものであったのではないだろうか。

あるいはまた側面的な要素として、割礼は、周辺世界でも既に行なわれていたが、その一般的な慣習には、種族保存の性器を、流血儀式によって聖別するといった宗教的意識もあったようであり、アブラハムの側には施すときにその意識も幾分か思い浮べたかも知れない。しかし、この出来事の前後の神の語りかけから総合的に判断するに、おそらくはこの儀式を命じられた本当の目的は、先に記した意味の方か大きいのではないかと考えられる。クリスチャンである私たちが受ける洗礼も同じ意味があり、それゆえにこそ、もはや私たちにとっては身体に傷を付ける割礼の儀式は必要ではなくなり、廃止され、神の祝福の約束を思い起すための新しいしるしとしては、洗礼で十分であるようになったのである
 (ローマ4章1~13節、使徒言行録15章1~21節を参照)。

さて、私たちが神との間に結ぶ契約についてであるが、旧約においてはこのアブラハムのときに与えられた契約のように、ただ一方的な神の祝福に対し、私たちは確かにそれを受けとめました、感謝いたしますということを示すための、しるしを身に刻むということが、まず第一に守るべき契約とされた。
 のちに、モーセの時代になって、神はその民に、生きる上での守るべき戒律を与えられた。十戒である。これは上記の、ただ受け取りましたというだけではなく、神の祝福を受けた者がどのように生きていくべきであるかを、示されたものである。また、旧約の民に対しては、神はこれにより生きよと命じられている。つまり指針である。しかしそれがイスラエルの民の側では転じて、これを守ることによって永遠の命に入るのだと、戒律主義に陥っていく、永遠の命は神の恵み・賜物であり、自分の努カによって得るものではないことに、イスラエルの民は気付かなくなっていく。しかし十戒すなわち律法そのものは、神が民のことを想って与えられた、聖なるものである。どうせ守れないものを苦悩に陥らせるために意地悪で与えられたのではない。私たちクリスチャンもまた、洗礼を受けた後も、神の聖なる掟としてこれを尊ぶべきである(コーマ7章7~12節参照)。

 新約になって示された、最後の、また創世の時から約束されていたことの成就としての契約は(創世記3章15節)、主イエス・キリストによって私たちが永遠の命に入れられるとの、ただ信じ受け敢るだけでよい大きな恵みである。これは形としては、旧約のアブラハム契約に似ている。私たちはただ、信じ感謝して受け取るだけである。神は、創世のときからずっと、救いの成就のときを待たれていた。そして御子の十字架により完成されたので、私たちばそれを感謝して受けるだけなのである。私たちは、もはや救われるためではなく、救ってくださった神への感謝として、その御心である掟を尊んで生きる。律法は依然として到底完全に守ることなど出来はしないのだか、もはや恐怖におののく必要はない(ヘブライ10章19~25節参照)。

創世記16章

                                                      2013.11.6 聖書を学び祈る会
アブラムの妻サライには、子どもが生まれなかった。神の、アブラムへの子孫の約束は与えられてはいるが、このままでは家を継ぐのはアブラムの実子ではない、とサライには思われた。神の約束を疑っているという意識はないが、何か具体的な方法を、とサライは考え、自分のつかえめ(仕え女)ハガルを与えて、子を得ようとした。
 当時は、奴隷の存在は当たり前の時代であった。聖書には旧新約ともに、このような時代的制限を持つ、制度や文化、言語、知識、また価値観が多くある。それは場合によっては、現代の信仰理解と大きな違いを示すものである。例えば、天地創造の有様や、病気に対する理解、他にも存する様々な差別の構図等である。そしてそれは当然の違いである。
 もう何度も伝えているが、聖書は完全無欠の書ではなく、神が不完全な人間を通しながらも、その時代ごとに肝腎な何かを語りかけられた書、またそれを受けとめた側の信仰告白の書である。よって、幅をもって読むことが必要である。

 ところで、このハガルの記事については、とかくアブラムとサライに中心を置きがちな読み方からは、少し距離を取りたい。率直に読んで、この記事はやはり、ハガルに同情する。涙をさそう。悪いのはサライではないか。またもうちょっと、アブラムも何とかしてくれたらよいではないか。アブラムを弁護する言い分は、権威主義の影響を受けているのではないか、と正直感じる。そして事実、神はハガルの側に立ち、彼女を顧み、祝福を約束されたのであった。
 女主人サライの仕打ちに、荒野へ逃げ出したハガルは、もうこのまま死ぬのかという時に、神の使いと出会い、希望と勇気を与えられ、再び冷酷な女主人のもとへと帰っていく。虐げられた者や、小さな命に神の目は注がれている。苦しくても先を信じよう。忍耐し、乗り越えていこう。神があなたを顧みられる。

 さて、最後にもう一つ、この記事の背景には、あまりサライの性格が良いとは思えない部分はあるにしても(後の21章でも)、しかし彼女をそのように追い込んでしまった根深い要因として、女性は跡継ぎを産むのが役割であって自身一人では人権が認められていなかったという、当時の社会制度上の問題もあるということを、決して看過するわけにはいかない。同じ女性同士なのに衝突せざるを得なかった、サライとハガル両者の悲しみも、元はと言えば不公平な力の社会全体の構造から生じており、現代もまた同じような構造は至るところにあり、これを打破していく勇気を持つことが教会にも求められていることを覚えたい。

創世記15章

                                                     2013.10.30 聖書を学び祈る会
 アブラムに対する神の約束は、人間には予想できない不可能と思える事を通しても成就へと導かれる。しかし神がアブラムになかなか後継ぎを与えられなかったのは、彼の信仰を錬るためであった。そしてついに今、アブラムは神によってその約束を確信するに至らせられる。彼は神の言葉を信じ、その約束は必ず成ると信じた。難しい条件や問答も何もない。彼はただ単純に、神のおっしゃる通りと、受けとめることができたのである。
 空気の乾燥したこの地の星空は、まさに満天であったろう。しかしその数のようになると、神は言われ、彼はそれを信じた。感動的な場面である。

 私たちも、神の約束以外に、確信を置けるものは何もない。神の約束は、不確かな人間の精神力や気持ちによって揺らぐようなものではなく、その愛と恵みによって、変わることのない確かなものとして与えられているからこそ、私たちはそこに確信を置くことができ、平安が与えられるのである。だからこそ感謝し、生涯この方に喜んで仕えていきたいと思うのである。

 正直に言って、この点が、多くの教会また教職の中で、そのようには受けとめられていない向きがあると感じられるのは、残念なところである。つまり、熱心に信じ続けなければ救いから漏れる、とでも言わんばかりの、しんどい信仰である。信じ続けることは素晴らしいことであるが、それは救いのためではないはずと思う。神との感謝の交わりの中にいることは、それは当人にとって本当に幸せで恵まれたことであって、先の約束から漏れないために続けるといったものではないはずである。

 自分の信仰の強さに頼るのではなく、神の愛と、その不動の約束に信頼を置くことの方が、よっぽど気が楽で、また嬉しいと思うが、あなたはどう受けとめるだろうか。時間が許されれば、みんなで色々と話し合おう。聖書の様々な箇所もそのヒントを与えてくれている。本章と直接関係のある箇所としても、ローマ書4章も、実は相当に重要な内容を示してくれている。ここをよく読めば、一つの教派の聖書理解など、限界のある小さな狭い枠に過ぎないということが分かるはずだし、また律法主義からも解放される。聖書は本当に、読み方次第で、堅苦しいものにも、喜びに満ちたものにもなるものだと気づかされると思う。

創世記14章

                                                         2013.10.23 聖書を学び祈る会
 14章に出てくる王たちは、だいたいBC17世紀ごろの人物と考えられる。4人の王の軍が死海の南にある5つの町
の王を攻撃した。戦争の原因は、5王が12年間、エラムの王ケドルラオメルに貢ぎを贈っていたのに、13年目にそれをやめて独立を図ったことにあった。14年目にエラムの王は他の3王と同盟を組んで攻めてきた。5王は侵略軍と戦ったが、大敗した。この歴史的遠征はここで聖書のロトとかみ合ってきている。侵略軍が略奪した、ソドム・ゴモラの財産と食糧の中に、ロトが含まれていたのである。
[14章13節~]
 危急を告げられたアブラムは、奴隷318人を連れて、4王の軍をダンまで追跡し、夜襲をかけた。しかしその目的
は、対決ではなく、ロトの一族と財産を取り戻すことにあったと言える。

[14章18節] 「メルキゼデグ」・・・王であると同時に祭司であった。ちなみに、メレクは「王」という意味の
単語であり、また、ゼデグは「ツェデク」(「義」)であるが、のちに「サドカイ派」の語源となる。新約になると、ヘブライ人への手紙では、メルキゼデグのことが詳しく紹介されているが(7章1~17節)、果たして創世記がまとめられた段階で、そこまでの認識があったかどうかは疑わしい(特にヘブライ7章3節の内容)。メルキデゼグが、祭司であると同時に王であったことから、後世のユダヤ人はこれを、来たるべきメシア(キリスト)の型と見るに至り、詩編110篇4節での讃美や、先のヘブライ書の解釈に発展したものと考えられる。新約において、旧約に対する「読み込み」のし過ぎ、ないしは「思い込み」ということが、実は少なからず存在するということを覚えておくことも必要であろう。キリスト教といえども、他の例に漏れず、宗教に自己を分析する冷静さが欠けると、危険に陥る場合もあることを忘れてはならない(魔女裁判やガリレオ喚問法廷など多数例)。

[14章20節] アブラムは祭司の祝福を喜び、十分の一を贈った。当時、十分の一を奉納することが民族間にあっ
ことから、アブラムはこれを自由な意志で贈った。しかしのちに、この時のささげ方が、ユダヤでの奉納の一つの基準となっていく(申命記14章22節、26章12節、アモス4章4節、他)。

 現代では、いかなる戦いも正当性はないと考えるが(不法をなす者には、警察という形での対処方法が妥当である、たとえ国家レベルであっても)、それは別として、当時は武器を取って戦うこともやむなき時代であった。ところで、このアブラムの家には、戦闘訓練を受けた奴隷が318人あったのだが、わずかこの数の者たちが、何万あるかわからぬ大王の大軍に立ち向かおうとした時に、何の不服も言わずアブラムに従ったのである。そして、その命令どおりによく戦ったのである。この忠節は、まず間違いなく、アブラムが愛の人で、彼らを常々親切に扱っていたからであると想像される。エジプトに行ったとき、彼が妻をエジプト王に渡したのも、自己の安全というよりも、もしかしたら多くの奴隷たちの先の処遇も考えて、犯した過ちであったのかも知れない。私たちは、完全さを求めるよりも、愛を最も大切にして歩みたい。