カテゴリー別アーカイブ: マルコ福音書

マルコ福音書9章30~10章16節

2013. 1. 16 聖書を学び祈る会 
  

[再び自分の死と復活を予告する] (9:30~32)
 イエスの受難の時が近づいていた。弟子たちにこのことをはっきりと教えておくため、イエスは群衆を避け、弟子たちとだけの時間を過ごそうとされた。しかし、弟子たちは、イエスからの二度目である受難予告にもかかわらず、イエスの言われたことを理解できなかった。

[いちぱん偉い者] (9:33~37)
 当時律法学者は民衆の指導者であり、その中でも民事の裁判権を持つ七十人議会(サンヘドリン)の議員にもなる者がいて、よい師につくことはこういった出世への可能性を含んでいた。イエスの弟子たちもそのような、この世的な成功を夢見ていた。またそれゆえ、イエスの受難を理解することができなかった。イエスはこれに対し、弟子たちが偉くなりたいと思うことそれ自体は否定なさらなかった。しかし、そのためには、この世的教えとは全く違い、自らをささげ、仕える者となることが必要であると教えられた。

[逆らわない者は味方] (9:38~41)
 積極的にイエスを信じ、主と告白することは大切で望ましいことである。しかし、同時にイエスは、人知を超えた愛をもって、救われる者の範囲を広くしておられる。積極的にイエスを否定するのでない者には、ゆるしと救いの余地が十分残されている。

[罪への誘惑] (9:42~50)、
 たいへん厳しい教えであるが、ここでの中心点は、それだけ真剣に救いを求めよということであろう。滅びの恐ろしさと、救いへの招きが述べられている。また、救われたキリスト者も、その後の生活が塩で味つけられたよいものであるよう求められている。

[離縁について教える] (10:!~12)
 離縁の問題については、律法学者にも解釈の相違があって、そのためにイエスを陥れようとするパリサイ派たちは、この間いをもってイエスを罠にかけようとした。イエスは、律法の根本精神にまでさかのぼって、神の教えと、人間の身勝手さを説明された。モーセの教えは、離婚の正当性を説くものではなく、人権擁護の精神から出ているものである。婚姻は、この世でだけのことであるので、望まれないことではあるが、破れが生じることも時として致し方ない。しかし、そのやむを得ない場合であっても.、弱い立場にある者が窮する事態は避けられなければならない。

[子供を祝福する] (10:13~16)
 この部分の聖書解釈、また訳し方は二通りある。すなわち一つ目の、大半の教会指導者たちによる伝統的解釈は、「子どもが受け入れるように、神の国を受ける者でなければ、そこに入れない」という解釈。これは文中の「子ども」を主格で捉えた解釈である。しかし近年、別の解釈の可能性が指摘されるようになった。それは「子ども」を対格(目的格)で捉えた解釈である。どちらも文法的には可能であり、むしろ「子ども」が出てくる他の箇所の文脈とも合わせて考えると、後者のほうが自然な訳ではないかと考えられる。その解釈では、「子どもを受け入れるように、神の国を受ける者でなければ、そこに入れない」という解釈となる。文法的にはどちらも可能であるのに、前者だけが選ばれてきたのは、教会の組織維持のためにはそのほうが都合よかったからではないかと私(内藤)は思う。しかし解釈は二通りあり(荒井献氏)、私も荒井氏と共に後者の解釈に立つ。

マルコによる福音書8章31~9章29節

2012.11.14聖書を学ぴ祈る会
[イエス、死と復活を予告する](8:31~9:1)

イエスは、ご自分がキリスト(救い主)であることがペトロによって発言された時、ご自分のことを、だれにも言ってはならないと戒められた。それは、政治的・この世的王と人々から誤解されることを二避けるためであった。人々の期待に応えることが、正しいことではない。教会もこの世に生きるとき、本当の使命がどこにあるのかを、しっかり認識しておくことが大切である。

 ペトロの告白に続き、イエスは初めて、ご自分の受難の宿命について話された。イエスの受難と復活は神の計画であり、神の意志であるが、しかしそれは弟子たちには理解できないことであった。たった今、イエスがキリストであると告白したばかりのペトロでさえ、「主よ、そんなことはとんでもないことです」と、反対をし始める。イエスはしかしそれに対し、ペトロ個人を指してではなく、ペトロの言葉の奥に隠れている、神の意志に逆らおうとする悪魔に対して、「退け」と命じられた。教会も、何でも全ての事柄に対し、善意の支持をする者があればこれを許容してしまいがちな体質があるが、時に厳しく、人に対してではなくその事柄の背後に隠れている問題に対して、意見を述べるべきことがある。

[イエスの姿カミ変わる](912~13)

 イエスの受難が示されたあとに、イエスの栄光の姿があった。モーセとエリヤがそこに現われたが、それはイエスが律法(モーセ)と預書(エリヤ)の完成者であることを示しているだろう。ところで、受難と栄光、この二つは、イエスにとって結ぴついており、切り離せない。いわば苦難を受けることが、栄光であると理解してよい。教会も神の栄光を求めるとは、隣人のために苦難を選び取って歩んでゆくことであると知るべきである。決して教会独自の繁栄を第一に求めてはならない。また、自分たちで都合よく飾り立てたイエス像を自分たちの象徴にしてもいけない。イエスのように、虚構を捨て、栄華を求めず、人々を苦しめる悪と立ち向かうことこそが、キリスト者の群れに求められていることである。

さて、ペトロはこの光景を見て、鷲きのあまりとりとめのない言葉を発するが、それは人間の思いつきが、至ってつまらないものであることを如実に表わしている。教会の歴史も、たいがい似たような発想で歩んできたのではないかと、反省すべきであろう。それはイエスにとっては全く無用な、意味のない、この世的な事柄である。

[汚れた霊に取りつかれた子をいやす](9:14~29)

イエスは究極的には魂の救い主としてこの世に来られたのであるが、様々な苦しみにある人々を憐れんで、その救いの到来のしるしとして、病気の癒しもされた。しかしこれはあくまでも、二次的な問題であった。私たちはイエスと直接、物理的に会うことができない現在、病いが癒されるかどうかは、信仰の如何によって問われていることではない。信仰があるなら全ての病いは癒されるはずだとする考えは、誤った考えである。信仰はむしろ、期待する結果を目にしなくても、自分に神の愛が最大限ふり注がれていることを、信じ委ねることである。

マルコによる福音書 8章1~30節

 2012.11.7 聖書を学び祈る会

[四千人に食物を与える](8:1~10)

 この話は6章の五千人の養いとよく似ている、二度目の奇跡である。前回は弟子たちが食物のことを言い出したが、今回はイエスの方から言い出した。それは、人々への愛の発露であるとともに、弟子を含む私たちへの、配慮への誘いである。私たちは、困難な状況の中にある人々を、自分のこととしえて痛みを覚え、神の前に解決を祈ってゆく者でありたい。その時に、神は道を開いてくださる。

[人々はしるしを欲しがる](8:11~13)

 不信仰な態度で、相手を認めたくないがために、証拠や実証を求めることは、神の悲しまれることである。それは、本当に信じたくて求めている態度とは違っている。彼らには何をしても、また何を言っても、無駄である。イエスはそのような者とは、論議などなされはせず、放っておいてよそへ行かれた。

[ファリサイ派の人々とヘロデのパン種](8:14~21)

 この記事は弟子たちが舟に乗り込んだ時に、パンを持ってくるのを忘れたために、困った事だと話し合っているのをイエスが聞いて、それをきっかけに、話されたことである。ここで気をつけよと言われたのは、ファリサイ派とヘロデのパン種であった。これは恐らく、救い主のわざを、政治的勝利のためやこの世での物質的利益と結びつけて考えようとする過ちに、注意しなさいということであろう。しかし弟子たちは、目に見える具体的な事にしか理解が及ばずに、イエスから叱責を受けた。

[ベトサイダで盲人をいやす](8:22~26)

 イエスはこの者に、二度、手を置いていやしをなされた。神さまの働きはこのように、一度にすべて解決をしてしまうのではなく、時間をかけて、なされる時がある。私たちのまわりに起こる出来事は、むしろこのようなことが多いのではないだろうか。しかし続けて祈り、関わることが必要である。

[ペトロ、信仰を言い表わす](8:27~30)

 マルコ福音書はこれから、いよいよ新しい段階に入る。これまではガリラヤ中心の一般民衆に対するイエスの働きが大部分であり、ことに多くの奇跡が行なわれたことが記されている。しかしこれからは、わずかしか奇跡は記載されなくなる。そしてこのペトロの信仰告白を契機として、イエスの受難とその使命とについてが、説き明かされてゆく。

 さてイエスはご自身の受難の時が近づいたのを感じ、弟子たちに重大な質問をされた。ペトロがこれに対し、代表して正しい答えをしたが、それは神さまの導きによる告白であった。しかしそれでも彼にそのことの意味が、十分理解ができていなかったことは、次に続く記事を見てもわかる通りである。

マルコ福音書 7章1~37節

 2012.10.31 聖書を学び祈る会
[昔の人の言い伝え](7:1~23)

 イエスの名声が高まるに従って、ガリラヤ地方にいたパリサイ人、律法学者たちは、エルサレムに応援を求めて、いっそう激しくイエスと敵対をしていった。ユダヤ教本山のエルサレムから来た応援隊は、イエスに、何か非難・攻撃できる材料はないかと、機をうかがっていた。
 食事の前に手を洗うという行為は、ユダヤにあっては、衛生上からよりも、宗教上の意味から重視されていた。それは旧約の律法を、パリサイ人、律法学者たちが、日常生活に適応するために拡大解釈したものであった。しかし彼らは、この規則を守ることによって、自分たちは神に熱心に仕えているのだと思ってしまっていた。そしてそれを自負し、それをしない人たちを軽蔑していた。このとき彼らは、律法を、神の御心をたえず問いながらこれを行なうというのではなく、ただ形式化して、表面的にだけ、自分の義を誇るためになしていた。これは神の喜ばれるところではなかった。キリストは、人を生かすための具体的な外面的な行為と、それを動かすための内面的な動機づけの、両方の重要性を説かれた。
 ところで、以上の話は、遠い昔の出来事として片付けてしまえるであろうか。同じようなことは、いつの時代も、また宗教熱心な人々の間において起こり得るということを、私たちは覚えておかなければならない。本当に重要なことを見失い、さほど重要ではないことに妙なこだわりばかり持つ体質は、ブランド指向の教派が陥りやすい過ちであることを、忘れてはならないであろう。

[シリア・フェニキアの女の信仰](7:24~30)

 イエスがこの地を訪れたのは、静かな憩いの時を持たれるためであったが、それでもここでも仕事が待っていた。イエスの仕事は本来、神が人類に魂の救い主として彼を遣わしたということを、伝えることであったが、これは唯一神信仰や罪の贖いという観念の下地がなければ、理解しにくいことであった。それゆえまずイエスは、地上におられる間は、ユダヤに宣教することを第一とされたと言うことができるかも知れない。これは彼の地上での、限られた空間と時間上で、仕方のないことであった。しかしここに、異邦人であってもイエスに対し、信頼を寄せる者がいた。イエスは、彼女のその信仰のゆえに、願いをきかれた。
 イエスがしかし彼女との問答の中で、いささか冷たい、また民族差別的だとも思える言葉を最初に使われるのは、彼女に信仰があるのを見抜いて、異邦人には神の恵みは与えられないと思っている周囲のユダヤ人たちに対して、当て付け・皮肉として言われたのだろうと解するのが、一番正しい解釈であろう。このことは、平行記事のマタイ15:23をみれば、納得がしやすい。イエスは度々このような、周囲の民族主義・律法主義の者たちに対する当て付け・皮肉を、他の箇所でも言われているので、そう解するのが一番適切である。しかしそれにしても、この言葉にめげずに、しかもその言葉を上手に使って切り返す、彼女の知恵としたたかさは見上げたものである。まさに信仰が彼女を強めたのである。

[耳が聞こえず舌の回らない人をいやす](7:31~37)

 イエスがガリラヤ湖に来られると、人々は耳と口の不自由な病人を、いやしてもらうために連れて来た。ここにはイエスに対する信頼と、神の憐れみを乞う、へりくだりの姿があった。この人々はデカポリスの人たちであった。デカポリスはガリラヤ湖の東下半分に接している地域である。ということは、実はこの地はかつて、イエスがレギオンという悪霊に取り憑かれた男を、いやされた場所であることがわかるのである。その時は人々は、イエスに出ていってくれと願った。しかし次にこうしてイエスが来られた時、イエスを感謝して迎えるに至るまで、変わったのである。その背景には、いやされた男の証しと(マルコ5:20)、また彼をみて人々が、どんな多くの家畜(財産)よりも、人間の方が大切だということが、よくわかったのであろうことがうかがえる。

マルコ福音書 5章21節~6章13節

                                                   2012.10.17 聖書を学び祈る会

[ヤイロの娘とイエスの服に触れる女](5:21~43)

 福音書には、イエスが死人を生き返らせた記事は、この他にナインの若者とラザロとに関して記されている。これらを迷信的要素として否定する者があるが、科学的説明ができなければ信じられないとすれば、イエスのいっさいの奇跡も彼の救い主としてのわざも、すべてはなくなってしまうであろう。そうすると、なぜにこれらの記事が残っているか、またイエスが宗教家たちから殺されるほど妬まれたか、また多くの復活の証人たちが命をかけて証しをしてきたか、それらの理由づけは全く説明がつかないものとなってしまうであろう。

 会堂長は、社会的に尊敬を受け、会堂管理の任にあたっていた者である。その彼(名はヤイロ)が、身を低くしてイエスに助けを求めた。彼の娘は、イエスがそこに向かう途中で息を引き取るが、イエスは彼に、ご自身が死のかなたにまで及ぶ永遠の救いの与え主であることを、信じよと言われる。そしてそのしるしとして、この奇跡を起こされた。私たちの死も、イエスにあっては絶望ではない。死は、希望へ続く、もう一度起き上がる日を待つ、眠りの時である。

 ヤイロの娘の救済に向かう途中、長血を患う女が出てくるが、彼女は、人々の旧約の律法の解釈からすれば、不浄の者とされていた。彼女はしかし切なる願いから、内にこもらず出かけて行く。そして、こっそりと気づかれないようにではあったが、イエスの御衣の裾に触れ、ついに神の癒しを得るのであった。彼女が最初黙って近づいたのは、不浄の者は公衆の場に出てきてはならぬという戒律があったからであろう。それでも出てきた彼女の決断、勇気は、イエスに対する信仰から押し出されたものである。私たちも、心からの切なる願いは、神の御前にすべて聞き届けられていることを覚えたい。

 さて、それに対し、イエスは彼女の思い、信仰が、人々の中に明らかにされることを望まれ、このようなとぼけた問い掛け(「誰かが私に触れ、力が出ていった」)を、わざとなされたものと思われる。しかし実はこれはイエスの御存知のことであり、イエスは彼女の信仰のゆえに、癒しを与えられたのであった。イエスは、人々が持つ様々なタヴー、自分たちで作り上げた間違った価値観、弱者を排除しても当然のごとくに感じる習性を破られるために、彼女の行動を隠されたままにしたくはなかったのであった。

[ナザレで受け入れられない](6:1~6a)

 イエスの故郷の人たちは、イエスのことをよく知っていたが、彼が普段は、見ばえのしない普通の人であるために、かえって彼につまづいた。人々というのはこのように、遠くの人や特別な人を尊敬しがちであり、それは意味を返せば、身近な人によって影響されて自分たちの生き方を変えたくないという、自己保身の考えからきている。人々はただ興味本位で、話の題材さがしにしか求めていないというのが、往々にして私たちにも起こることである。

 「この人は、大工ではないか。マリアの息子で…」は、ユダヤ人にすれば非常に侮蔑的な表現となっている。大工(テクトーン=石工)は日雇いの仕事、親の名は通常ユダヤでは父親名が呼ばれたことから、ヨセフの子とは見ず、誰の子か分かったものではないとの、侮辱の言い方である。イエスはしかしこれに対して、人々の注目や尊敬を集めるために、何かをなさろうとは、一度もされなかった。意識してまでの不信仰を抱く者には、何をしても無駄である。私たちも同様に、そういった人々への説明責任は無い。

[十二人を派遣する](6:6b~13)

 イエスが弟子を選び、彼らを二人ずつ遣わしたことは、私たちが、兄弟姉妹と励ましあって伝道しなければ、何も実を結ばないだろうことを示している。それは教会単位で考えても、同じことが言えるだろう。自分と自分の属する小グループのことしか考えられないものは、神の願いからは離れていると思う。

 さてもうひとつの点、イエスが弟子たちに何も持たないで出てゆけと言われたのは、それはそれだけこの時が、緊迫した状況にある時だったからであろう。この箇所から、伝道と貧乏とを短絡的に結びつけて考えようとする者がいるが、それは的(マト)はずれである。イエスはのちに、ルカ福音書22章35節以下では、今度は逆に、備えもしてから出てゆくようにとも、教えられたからである。

マルコによる福音書 3章20節~4章20節

                                                     2012.10.3 聖書を学び祈る会

[ベルゼブル論争](3:20~30)

 ユダヤ教の本部エルサレムから、律法学者たちが、イエスを批判するためにやってきた。彼らは悪意をもって、イエスのわざは悪霊のかしらベルゼブルによるものだと言った。しかしイエスは、サタンはそのような内輪もめをしない、とこの批判を退けられた。またそのような、神の働きを見てもそれを冒涜するような者に対しては、厳しい裁きがあることを警告された。「聖霊をけがす者」というのは、人間の心に近づいてこられる神に対して、それを神の諭しの声とは認めず、またそれと気づいても、茶化して済ませようとする者のことである。そのような者は「ゆるされない」というか、既に裁きの中にいるままである。

[イエスの母、兄弟](3:31~35)

 罪ある者(と当時レッテルを貼られていた人)や病人たちは、素直にイエスに助けを求めにきたが、家族の者はあまりにイエスの近くにいて、かえって理解することができなかった。イエスが「神の御心を行なう人」と言われたのは、心を低くし救いを求め、神が差し出した救いを素直に受け取る者のことである(ヨハネ6:29)。

[「種を蒔く人」のたとえ](4:1~9)

 イエスは民衆に対して、生活の身近なところから、わかりやすい譬えを用いて話をされることが多かった。ただしイエスの語られる譬えは、普通に言う例話とは違って、神の奥義に関することを、地上のことで説明する方法であった。それゆえ、だいたいにおいて譬えは、一つないし二つの中心点を持っていて、それが重要であり、他の詳細な部分はあまり意味を持っていない場合が多い。イエスの譬えは、その中心的な強調点をつかむことが大切である。

[たとえを用いて話す理由](4:10~12)

 イエスは、イエスに従う者たちには、神の国の譬えをさとる知恵が与えられることを話された。しかしイエスを主と信じない者、真剣に求めない者は、たとえイエスの所にやってきても、ただ利益や自分の関心事のためだけであるなら、その人たちには、神の国の奥義は授けられない。私たちは、御言葉に対して、真剣かつ謙虚な姿勢で、これを聞くことが必要である。

[「種を蒔く人」のたとえの説明](4:13~20)

 「種」は神のみことば。これを、どのような心構えで聞くかが問題となっている。真剣に神の御言葉を聞く者には、神の国が彼の中で成長してゆく。その者は御言葉によって強められ、知らず知らずのうちに、多くの実を結んでゆく。

 この箇所は、ルカも参考にすると、なお一層理解ができるであろう。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることがないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」(ルカ8:12)とある。つまりそれは、他の部類の種は、ともかくも信じて救われたことを意味する。すなわち、「良い地」に落ち多くの実を結んだ種だけではなく、「石だらけの所」や「茨の中」に落ちた種も、とりあえずは救われた者であることを示している。私たちは、神からの栄冠を求めて生きるべきである。信仰をしっかりと保つ者は、必ずそれを受け取る。しかし、信仰が途中で挫折したり、いい加減な歩みしかできなかった者にも、神は救いを用意くださっていると、受け止めてよいではないだろうか。

 Ⅰコリント3:10~15、ガラテヤ6:7~9、ローマ4:4および11:29、ヨハネ10:28、ヘブライ10:35、その他多くの箇所が、救いは恵みであり揺るがないことと、またそれにプラスして、信仰を貫く者は神から報いを受けることとの、両方を記していることを読み取ることができるであろう。これはルーテル教会にとって馴染みがなくとも、時代と共に、聖書の解釈は、旧来の一つの教派の解釈を越えていく可能性を秘めている、と覚えることが必要であろう。

 

マルコ福音書 2章18節~3章19節

2012.9.26 聖書を学び祈る会

[断食についての問答](2章18~22節)

 元来ユダヤにおいて、断食は悲しみのしるしであった。しかし時代とともにこれを行うこと自体に価値があるようになっていった。パリサイ人などは、週二回断食を行うことを誇りとしていた。しかし形式的にだけ正しさを身につけようとしても駄目である。イエスは本来的な意味を問題にされた。イエスは、ご自身の教えがそれまでの戒律主義とは異なり、人間生活を、愛を基として考えるという新しいものであることを、布やぶどう酒の譬えをもって語られた。イエスの教えはこのように、保守的な考えの人々からみれば、受け入れ難いものであった。同様のことはいつの時代にもあることで、革新的なことは、それがどんなに的を射たものであっても、馴染みのない人々にとってまず最初に起こるのは、批判や反発である。そして実際、この譬えに挙げられたぶどう酒も、新しいものより古いものの方が美味しいものである。布も、新しいものよりも古いものの方が、肌ざわりが自然である。しかしそれでも私たちは、より真実を求め、私たち自身が新しい器とされていくことが必要である。

[安息日に麦の穂を摘む](2:23~28)

 イエスの名声が高まるにつれて、学者やパリサイ人たちの敵意はますます激しくなっていった。ある時、弟子たちが安息日になした行動が律法に反することとして、彼らから非難を受けた。確かに、表面的にはそうである。しかし、律法は、人間を束縛するためにあるのではない。神は、人間への祝福として与えられたのである。人間に休息を与えることによって、神は人間を労働の苦しみから解放し、神の創造と摂理を覚えさせてその魂を憩わせるために、安息日を聖日と設定されたのである。従って、神の恩恵を覚え神と交わることが大切であって、安息日の規則が、人間を苦しめることになっては、本末転倒である。イエスは、律法の判断は杓子定規であってはならないことを、ユダヤ人の最も尊敬するダビデの例をあげて反証された。

[手の萎えた人をいやす](3:1~12)

 イエスは、安息日の基本精神に基づき、安息日にも病人をいやされた。イエスは曜日に関係なく、人を愛するという視点で、堂々とこのことをされた(既にマルコ2:21~にも記されていたが、同じ例は沢山あった)。しかしこのことは、戒律によって面目を保っていた宗教家たちにとって、メンツが丸つぶれであり、このためイエスを殺そうと計画をし始める。そしてそのためには、仲が悪く反目し合っていた者たちとも手を結ぶこととした。

[十二人を選ぶ](3:13~19)

 イエスに救われた者すべてが、弟子となるのではない。イエスが弟子にしようと考え、また声をかけられイエスに真に従っていこうとする者だけが弟子となる。ここに神の側からの選びと、これに応ずる人間の側の服従とがある。我々も、全てのクリスチャンが弟子となっているわけではない。しかし、神の栄光のため、イエスの招きに従ってゆく者でありたい。イエスの弟子であるかどうかは、表面的な活動では判断されず、イエスのみがその中身の評価をなされる。中には、偽りの弟子もあるだろう。すなわち、自分のためにキリスト教を悪用している者である。しかし主を心から愛する者は、主の導きを求め、御心に沿う歩みができるよう心を常に傾ける。

マルコによる福音書 3章20節~4章20節

                                                      2012.10.3 聖書を学び祈る会
[ベルゼブル論争](3:20~30)

 ユダヤ教の本部エルサレムから、律法学者たちが、イエスを批判するためにやってきた。彼らは悪意をもって、イエスのわざは悪霊のかしらベルゼブルによるものだと言った。しかしイエスは、サタンはそのような内輪もめをしない、とこの批判を退けられた。またそのような、神の働きを見てもそれを冒涜するような者に対しては、厳しい裁きがあることを警告された。「聖霊をけがす者」というのは、人間の心に近づいてこられる神に対して、それを神の諭しの声とは認めず、またそれと気づいても、茶化して済ませようとする者のことである。そのような者は「ゆるされない」というか、既に裁きの中にいるままである。

[イエスの母、兄弟](3:31~35)

 罪ある者(と当時レッテルを貼られていた人)や病人たちは、素直にイエスに助けを求めにきたが、家族の者はあまりにイエスの近くにいて、かえって理解することができなかった。イエスが「神の御心を行なう人」と言われたのは、心を低くし救いを求め、神が差し出した救いを素直に受け取る者のことである(ヨハネ6:29)。

[「種を蒔く人」のたとえ](4:1~9)

 イエスは民衆に対して、生活の身近なところから、わかりやすい譬えを用いて話をされることが多かった。ただしイエスの語られる譬えは、普通に言う例話とは違って、神の奥義に関することを、地上のことで説明する方法であった。それゆえ、だいたいにおいて譬えは、一つないし二つの中心点を持っていて、それが重要であり、他の詳細な部分はあまり意味を持っていない場合が多い。イエスの譬えは、その中心的な強調点をつかむことが大切である。

[たとえを用いて話す理由](4:10~12)

 イエスは、イエスに従う者たちには、神の国の譬えをさとる知恵が与えられることを話された。しかしイエスを主と信じない者、真剣に求めない者は、たとえイエスの所にやってきても、ただ利益や自分の関心事のためだけであるなら、その人たちには、神の国の奥義は授けられない。私たちは、御言葉に対して、真剣かつ謙虚な姿勢で、これを聞くことが必要である。

[「種を蒔く人」のたとえの説明](4:13~20)

 「種」は神のみことば。これを、どのような心構えで聞くかが問題となっている。真剣に神の御言葉を聞く者には、神の国が彼の中で成長してゆく。その者は御言葉によって強められ、知らず知らずのうちに、多くの実を結んでゆく。

 この箇所は、ルカも参考にすると、なお一層理解ができるであろう。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることがないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」(ルカ8:12)とある。つまりそれは、他の部類の種は、ともかくも信じて救われたことを意味する。すなわち、「良い地」に落ち多くの実を結んだ種だけではなく、「石だらけの所」や「茨の中」に落ちた種も、とりあえずは救われた者であることを示している。私たちは、神からの栄冠を求めて生きるべきである。信仰をしっかりと保つ者は、必ずそれを受け取る。しかし、信仰が途中で挫折したり、いい加減な歩みしかできなかった者にも、神は救いを用意くださっていると、受け止めてよいではないだろうか。

 Ⅰコリント3:10~15、ガラテヤ6:7~9、ローマ4:4および11:29、ヨハネ10:28、ヘブライ10:35、その他多くの箇所が、救いは恵みであり揺るがないことと、またそれにプラスして、信仰を貫く者は神から報いを受けることとの、両方を記していることを読み取ることができるであろう。これはルーテル教会にとって馴染みがなくとも、時代と共に、聖書の解釈は、旧来の一つの教派の解釈を越えていく可能性を秘めている、と覚えることが必要であろう。

マルコによる福音書1章21~45節

2012.9.12 聖書を学び祈る会

[多くの人々を癒す]

マルコ福音書には、イエスの行なった多くの奇跡のことが記されてある。この1章21~45節だけでも、三つの癒しの奇跡の記事が出てくる。

 奇跡は、現代人にとっては理解しがたいこと、迷信じみたこととして受けとられがちである。聖書の読み方にも、そのような人間の理論で理解しきれない部分は、単なる精神的な出来事の描写としての、象徴的な描写にすぎないとする意見もある。しかしそのように考えると、どうしても、イエスとその弟子たち、また群衆の取った行動に、奇跡がなかったとすれば説明がつかず、疑問が生じてこざるを得ない。理性や検証では確認することはできなくても、やはり奇跡は行なわれたのである。

 イエスの奇跡をめぐって幾つか考察してみると、これらの奇跡はいずれも、イエスが、見せ物的になされたのではないことがわかる。またイエスは、奇跡のことが評判になり、彼の真の使命が誤解され、英雄視されることを懸念している。そのため彼は、人に言わないようにと命じておられたりする。イエスの奇跡は神の子の顕現の一つであるが、特に癒しは、愛のゆえに、やまれずになされた行為であった。また病気が罪のゆえに与えられる神の罰であると考えられていたユダヤにあっては(40節のハンセン氏病などは特にそう考えられていた)、イエスのこの働きは、救いを求める人々に深い慰めとゆるしを与えた。このことを抜きにして、イエスの奇跡は語ることができない。

 イエスが汚れた霊に取りつかれた男やシモンのしゅうとめを癒した記事が出ているが、これらはユダヤの慣習からすると、安息日にしてはならないことであった。それらは律法学者たちによれば、神に背くことであった。しかしイエスは、あわれみのゆえにこの行為をなされた。イエスの働きは、人間を苦しめる悪魔とのたたかいであった。そういうわけでイエスが第一に取り組まれたのは、教えを宣べ伝えることであり、肉体の癒しそのものはむしろ二次的な業であったことが36~39節からも読み取られる。このことは現代においても、教会がまずどの業に取り組まなければならないかを、示唆する視点になるのではないかと思う。

 さて、イエスのガリラヤでの最初の伝道の中心地は、カペナウムであったが、さらに具体的には、シモンとアンデレの家が本拠となった。シモンは結婚して家庭を持っていたが、イエスはここで彼ら家族の好意にあずかっておられた。シモンの妻については、その後、夫と一緒に伝道旅行に出かけて行ったことが記されている(Ⅰコリント9:5)。

 初代教会において、女性たちの働きは大きい。マルコ福音書の著者=ヨハネ・マルコの母マリヤもそうであったし(使徒12:12)、このように女性たちの熱心は、福音の宣教のため、神の栄光のため、重大な貢献をなした。

 マルコによる福音書1章1~20節

    
                                                       2012.9.5聖書を学び祈る会  
今月よりマルコによる福音書の通読を始める。一般に、’マタイ、マルコ、ルカによる三つの福音書は、共観福音書と呼ぱれる。それは、その書き方、構想において、一致する部分がかなり多いからである。そして三書を比較してみると、マルコに最も共通の資料が多く、またその描写の仕方が、マルコが最も素朴である。そういったことから、マルコ福音書が三書の中では最も古く、マタイ、ルカの福音書成立にあって、かなりの影響を与えたものと考えられている。マルコ福音書を読み進めることはしたがって、最も基本的で重要なメッセージを、今ひとたび聴くことになるだろう。

〔神の子の宣教の開始〕

[1:1]

「神の子」・・・・イエスに関する称号の中で最も重要なものである。マルコには、この語は6回しか用いられていないが、1:11の受洗の時、9:7の変容の時、15:39の百卒長の告白の時と、大切なところに入れられている。

[1:4]

「悔い改め」・・・・単に罪を悔いることではなく、人閥中心から神の意志に従うべく、立ち返るということである。

「洗礼」・・・・ユダヤ教自体にもこの儀式はあったが、それは倫理的な決意や、また異邦人がユダヤ教に改宗する時に行なわれるものであった。洗礼者ヨハネはそれを、終末の切迫した神のさばきのための準備として行なった。しかしそれらはいずれも、完全に人の罪をあがない、救いをもたらすものではなかった。人間の決意、気構えは、永続するものではなく、また不安定である。罪を赦し、救いに入らせるのは、ただ神の憐れみによるのであり、私たちはその恵みのしるしとして、父、子、み霊による、神の側の約束による洗礼を受ける。

〔1:8〕

ルターは小教理問答の中で洗礼について、「みことぱなしには、水は単なる水である。

・・・しかし神のみことぱとともにあるとき・・・・それは恵み深いいのちの水であって、聖霊による新しい生まれかわりの洗いなのである。」と言っている。

[1:9]

イエスが洗礼を受けられたのは、ご自身のためではなかった。罪なき方が、罪ある私たちの重荷を、ひき受けてくださるためであった。

[1:12]

み霊がイエスを、試みに会わせるために、荒れ野に送り出したことも鷺きである。「神の心にかなう」(9節)者が、試繍に会う。私たちの会う試練も、きっと誰かのために神によって用いられている。

[1:17,18]

 イエスの弟子とされることは、ただイエスの側からの招きによる(ヨハネ福音書15:16)。彼らがその言葉にすぐ従って行ったことは、無謀であるように感じるかもしれないが、マルコはいたって簡明に記事を書いているだけで、その事前の。心備えとなる出会いの出来事を、ルカやヨハネは記している。その上での決断であった。