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創世記38章

<38章は、かなり歪んだ普通ではない物語が出てくるが、聖書はただ良いことばかりを綴った書物ではなく、イスラエルの歴史を正直に書き記し、こうした倫理的に問題のある出来事と人間模様をも隠さずに知らせている。これは他の宗教の経典と大きく違う。 ヤコブの子の一人であるユダは、カナン人の娘と結婚した。そしてエル、オナン、シェラの三人の息子をもうけた。エルは長じてタマルという嫁を迎えた。しかしエルは若くして死ぬ。長男が死んだので、ユダは次男に命じてタマルと結婚させた。昔のユダヤには、こういった習慣が法律によって定められていた。それはレビレート婚といわれるが申命記25章5節にも記されている。これは家の存続のみを考え、個人の意志を軽んじる悪しき慣習であったが、当時としては仕方のない事例であった。またそれは、あまりにも低すぎた女性の地位を、少しでも救う働きをしていた。ただしそれは、当時としてはという限定付きの譲歩した表現ではあるが。つまり、つい近代に入るまで、ユダヤの女性には、財産の相続権が幾分も無かったからである。これらは時代の限界である。本来の望ましい形としては、女性にも当然のことながら相続権があるべきであり、男系のみ、それも長子のみを優遇しようとしたユダヤ社会が、相当に無理な歪みを、あちこちに露呈していったことは否めない。そういう事情の中、ここに記された悲劇が始まっているのである。 さて、エルに続きオナンも、宗教上の理由から神の審判を受けて死ぬ。彼の罪は、行為を引き受けていながら、義務を果たさずごまかしたことにより、死んだ兄とタマルに対して不誠実であったということで死の審判を受けたのであろう。彼が父から命じられたことに不服を覚えていたなら、それを正直に話し、悪い因習をそこで打ち切る努力をすべきであっただろう。その努力もなしに表と裏を使い分け、ごまかそうとすることは、何の解決にもならないし、それが命に関することであったならば、なお一層、重大な事柄であり、その不誠実な態度は自分に返ってくる。事は違えど、同様のごまかし、また不誠実な態度が、いかに現代において社会に満ちていることかと思う。権力者の設定する悪法に屈しているのも同様のことではないだろうか。ところで話を戻すが、長男に続き次男も死んで、ユダは、このことが起こったのは、何かこの嫁に不吉な運命が付きまとっているからではないかと考えた。そこで、三男がまだ幼かったことを口実に、タマルを実家に帰らせ、そのまま遠ざけておこうとした。しかし、この中途半端な口先でだましたタマルヘの仕打ちが、ユダの根本的な悪であった。タマルはこの嘘を見抜き、そして最後の手段に訴えた。彼女は遊女に変装して義父に近づき、子種を宿した。三男にではなく義父のユダに近づいたのは、三男には近づける隙がなかったのと、ユダがやってくる羊の毛を刈る儀式の祭には、そういった羽目をはずした遊び方をするのが世間では普通にあったからであった。 タマルの行為は、人倫にそむくことであったが、当時、家というものが極度に重視されて女として子を産まぬということが大きな恥とされていたことを考えると、彼女のなしたことは情状酌量の余地があった。こののちタマルの妊娠が明るみに出て、真相がわかり、非を悟らねばならなくなったのは、ユダのほうであった。 こうした破れを持った家系の末に、救い主が登場してくるというのは、意味深いことである。マタイ1章の系図は、明らかにそのことを意識した書き方である。ユダヤの系図は男系のみで女性が省かれる場合も多いが(それは差別であり問題だが、そのことはここでは扱わない)、そこには存在を伏せたい女性のみ記されている。キリストは、罪が絡み合って泥沼のようになっている私たち人類を、救いにこられたのである。 次回:4月23日(水)創世記39章

創世記37章 おさらいと補足

2014.4.9 聖書を学び祈る会
ヨセフ物語は、誰もが持つ罪の深さにもかかわらず、神がそれらのゆえに起こる悲劇をも通してなお、着実に救いのみわざを準備し、遂行されるという事柄を扱う。1~11節については、前回にもふれた通り。17才にもなったヨセフは(2節)、兄たちのことを父に告げ口したり、兄たちの前で自分が彼らから敬われるようになるということを、話すべきではなかった。彼のこの傲慢さが、兄たちの嫉妬と怒りとを更に助長したのであった。また、このようなわがままな子が育つに至ったのは、父の甘やかし過ぎという責任もあった。さらに、ヤコブの彼への偏愛が、他の息子たちの嫉妬をかった。ここには三者三様の過ちが出てくる。

兄たちは、遠くの野原まで出て来たヨセフを、穴に放り込んだ。当初、長兄ルベンは、あとでこっそりヨセフを救い出し、父のもとへと返すつもりでいたが、既にヨセフはどこへやら、消えてしまっていた。そこで彼らは、ヨセフの着ていた着物に山羊の血をつけて家に持ち帰り、父ヤコブには、ヨセフが野獣に殺されたらしいと、思わせるようにした。彼らはそのことによって、ヨセフに対する嫉妬と、父の偏愛に対する恨みを晴らそうとしたのであった。彼らの言葉が、その冷たさを物語っている。「あなたの息子の着物かどうか」確かめてくれと言うのである。「わたしたちの弟」ではない。

しかし、このことはやり過ぎであった。父の悲嘆の仕様は、彼らの想像以上であった。あまりにも嘆き悲しむ父をみて、彼らは慰めようとするが、もう遅かった。罪はこのように、更に罪また悲劇を生む。このことは兄たちを、深い反省へとうながしたであろう。彼らのその変化は、のち、44章にて特に顕わに見ることになる。また、このような変化は、兄たちだけに起こったことではなかった。ヨセフの上にも、神の懲らしめと諭しがなされていった。ヨセフも、たった一人になり荒野の穴に入れられ、また遠く異国の地へ奴隷となって売られていくことによって、自らを反省し、神を深く想うようになる機会を与えられる。こうして、神の遠大な計画は、少しずつ、進んでいくことになる。

次回:4月16日(水)創世記38章

創世記36章、37章冒頭

2014.2.12 聖書を学び祈る会

2014.3.19 聖書を学び祈る会

36章のエサウの系図を終え、創世記はいよいよ37章から、ヨセフ物語に入る。これよりあとは、ユダとタマルのことを語った38章と、ヤコブの死についてふれた49章を別にして、全体がヨセフ物語である。ヨセフについての記述は非常に詳しく、いきいきと記され、その数奇な生涯を通して神に愛され導かれた姿は、イスラエル民族が自らの歴史を重ねて見るときの希望となっている。

[36章8節] エドム人(ヘブル語で「赤い」は「アドモニ」)は、エサウの子孫で、エサウの生まれた時の肌の赤さからその名が出たとされている。ヤコブに騙された豆スープの色も赤であり、またエドム人が住んだ、死海からアカバ湾に及ぶ山岳地帯(セイル)の岩の色も赤く、総じてエサウの子孫は「赤の民」と呼ばれたようである。

[36章31節] この表現は明らかに、イスラエルが王制をしいてから後の世に書かれたものであることが分かる。だから、モーセが創世記以下、申命記までの五書を書いたのだという伝説が、正しくはないことが分かる。旧約最初の聖典は、ソロモン王の時代、それまで口伝で受け継がれていた伝承を元に、「地の民」と呼ばれる国の堕落を嘆く人々が、まとめたものであることがほぼ分かっている。

[37章2節] ヨセフは、兄たちのする悪事を黙っていることができなかった。しかし、それを言いふらすこともよくなかった。彼が兄弟たちから憎まれるようになったのも、彼自身の性格にも問題があった。このことは、彼が得意気になって夢の話をするあたりに、もっとよく表れてくるようになる。

[37章3節] ヨセフはヤコブの年寄り子として父ヤコブに愛された。ヨセフは、ヤコブが愛した妻ラケルとの間に生まれた長子であり、しかもラケルは第二子を産んだ時に亡くなっているので、ことにもヤコブの愛の対象になったのであろう。しかし、その偏愛は、彼(ヨセフ)に幸福を与えなかった。兄弟から憎まれたからである。

[37章3節] 「裾の長い晴れ着」は、働き着ではないばかりか、ぜいたくな物であった。サムエル記13章18節には、王の姫たちの着物とされている。

[37章5節] ヨセフの夢も神の啓示であったかも知れないが、それを兄たちに、口に出して語ることは、ただの傲慢であった。これがわがままに育てられた彼の欠点であった。しかし神は、それらの人間たちの欠点をも利用して、試練と同時に、益となる道をも備えられる。本章はその始まりである。

次回:4月9日(水)創世記38章。(3月26日と4月2日は春休みとします)

創世記34章、35章

2014.3.12 聖書を学び祈る会

34章は、随分ひどい話である。物事の起こりも結末も、何らほめるべきものはない。しかしこのような記述も赤裸々に報告するというのが、人間の罪深さとそれにもかかわらず注がれる神の愛を扱う、聖書の特徴である。

ヤコブの娘ディナは、シケムの町の首長の息子(彼の町と名は同名である)に汚される。似たような事件はシケムの町では度々行なわれたことであったようだが、イスラエル民族にとってみれば、あってはならない不埒な悪業であった。しかし問題は更に続く。

シケムは最初ディナを汚したのではあったが、今度は真剣に愛するようになったので、ヤコブの家へ父と共に求婚の申し出に来る。その態度は丁重であったと思われる。しかしディナの兄たちは激しい怒りを隠しながら、シケムの一家を欺き、罠にかけて彼らを殺すのである。シメオンとレビは、許すべからざる強姦という罪に対する神の罰を、神に代わって執行したつもりであっただろう。しかし彼らのなしたことは、ただ、個人的な怒りに任せて人を殺すということであった。外典ユディト書はこのことを、ある程度までは肯定的にとらえてはいるが(9章2~4節)、正典は、このゆえに彼らが呪われ、他の部族の中に散らされ消滅するであろうことを語った(創世記49章5~7節)。

自分の本音をさておき自己を正当化するという危険は、誰にでもあるが、クリスチャンはまた特に、神の言葉をそのために使うことがないよう気をつけなければならない。

35章はヤコブのベテル上りを記している。彼は一族をひき連れ、かつて彼の苦しみの日に答えてくださった神に、一族をもってこれに仕えることを約束しに、出向いて行く。そこは、彼がかつて石を枕にして仮寝した場所であり、罪の後悔と不安にさいなむただ中で、神が彼に夢枕に現れてくださった場所であった。そこにたどり着き、礼拝をささげたとき、彼は感無量であったろう。彼はそこで神の祝福を受けた。

35章はまた、最愛の者を失う悲しみについても取りあげている。神から祝福を受け、これからというときに、ヤコブの妻ラケルは世を去ってしまった。突然であった。しかもその日は、第二子出産の喜びの日となるはずであった。苦楽を共にというよりは苦労ばかりを味わわせた、彼女の死は、ヤコブにとってあまりにも深い悲しみであった。この悲しみは、ヤコブが世を去る最期の日まで続く。彼は死の床においても、この日の悲しみを口にしている(48章7節)。

神から祝福を受けた者でも、愛する者を突如として失う。人の命は儚(はかな)く、死は強い。しかし神は私たちに、来世と永遠の命とを約束される。また神は来世のことだけでなく、この世においても、決して一人の人の命と死を無駄にはしない。ラケルがこのとき死を賭して産んだベニヤミンは、ずっと後イスラエルを動乱の時代から守った、初代の王サウルの先祖となる。

次回:3月19日(水)創世記36,37章

創世記32章、33章

2014.2.26 聖書を学び祈る会

ヤコブの故郷への帰還は、はじめは、叔父ラバンのもとを多くの財産を持って去り、意気揚揚としていたかも知れない。しかし、だんだんと故郷の空が近づくにつれ、彼の心には暗雲が広がった。騙して、激しい怒りを買ったままになっている兄は、はたして自分を赦して、喜んで迎え入れてくれるだろうか。それとも、まずます恨みはつのって、自分の帰りを手ぐすね引いて待っているのだろうか。

彼は何とか、兄に受け入れてもらおうと思って、策を講ずる。自分の家畜を二手に分け、たとえエサウが攻撃してきても片方は残るようにした。また、先頭にエサウヘの贈り物として、家畜の群れを行かせ、しかもそれを第二、第三の群れに分けて隔てを置き、エサウがやってきた時、何とか彼の心を徐々になだめるようにと工夫をしたのである。

ここまでは、ヤコブの抜け目なさがよく出ている。しかし、彼はただそうした策をめぐらしただけでは、安心を得ることはできなかった。いくら知恵を絞っても、拭い払うことのできない、あまりにも大きな不安と恐怖が彼の心を襲いかかっていた。彼はそのために一晩、ひとり川のこちら側に残り、必死で神の恵みを乞うて、祈りをするのである。32章10~13節に表わされた彼の祈りは、もはやかつての祈りのような、神に対する傲慢な思いというものはない。彼は長い年月を通し多くの試練を経て、神に練られ、その祈りはいつの間にか、深くされていったのである。彼は本当に、心を貧しくして祈った。このときに、神は、御使い、あるいは見知らぬ人の姿をとって、彼の前に現われたのである。そして、不安にさいなむ彼と、組み打ちをされた。

ヤコブもまたこれと、全身の力をふりしぼって格闘をした。不安の中で、しかし彼は神に全身をぶつけ、しがみ、叫び、祈った。これほどの激しい信仰告白はない。そしてまた神の恵みは、本来は全く勝負にならない力と権限を持った方が、人間の悩みの同一地盤のところにきて、対等に、もみ合ってくださるということであった。

指一本で、ももの間接をはずせる力のある方が、不安で必死になって恵みを乞うてくる者に対して、それを身体で全て、受けとめてくださるのである。この神は、泣き叫び体当たりでくる子供を、そのまましっかりと受けとめる親の姿に似ている。

神が私たちと、まともに付き合い、とっ組み合いをしてくださるということは、私たちにとって大きな慰め、また励ましである。

ヤコブはこの後、神が自分のそばにおり、自分のすべてを受けとめていてくださることを知って、大きな平安を与えられる。この後、彼は兄エサウのもとに向かうとき、もはや全てを神に委ね、不安は消え、先頭に立ってゆくのである。神に全身をぶつけ、神に克服され、神に祝福をされるとき、人は新しくされるのである。のちにイスラエルの子孫は、動物のももの肉を食わなくなった。この美味しい部分を切り捨てるたびに、ヤコブと神の組み打ちのことを思い出して、自らの人生にもそのように接してくださる神の恵みを心に刻むためである。

創世記31章

2014.2.19 聖書を学び祈る会

ヤコブの富はだんだんと増して、ついに主人であり、かつ叔父であるラバンの富をしのぐに至る。ヤコブの富が増えたのは、単にヤコブの知恵によるのではなく、神の恵みによるものであった。しかし、ヤコブは富と同時に、ねたみを買った。もともとラバンは30章35節でも見うけるような、汚い仕打ちをする欲の深い男であつたが、彼とその息子たちにとって、ヤコブの繁栄はうとましいものであった。ヤコブはそのことを恐れ、ひそかに財産をまとめて出てゆこうとする。

叔父のもとを離れ郷里に帰ることは、神のみ旨でもあったが(30章3節)、しかしヤコブは、その主の「わたしはあなたと共にいる」との言葉を、本当に信じることはできなかったのであった。彼は策略をもってこれを実行する。彼の信仰は、いつも不完全な信仰である。しかし、不完全な信仰でも、無いよりは勝る。神は、薄信の者であっても見捨てられない。これが創世記の伝えるところである。

[14~16節] ラバンは14年間ヤコブに働かせても、少しも娘に持参金をくれなかった。だから娘たちは、父に売られたのであると憤慨したのである。また、彼女たちにとって、家族の絆を断って出てゆくことは、やはり実際的にも精神的にも大へんなことであったに違いなく、そういう理由づけでもしなければ、自分たち自身を納得させることはできず、やっていられなかったのであるとも考えられる。

[19節] 「守り像」・・・小さな祭儀用の道具で、いわば家の守り本尊。参考として、出土されたヌジの法典によると、家の財産の相続権と、この守護神の像の所有は、ひとつであった。この像はもちろん、主の日から見て、悪しき偶像崇拝であったが、イスラエルの民はたびたび、この誘惑に陥った。士師時代にはミカがこれを作り(士師17章4節)、ホセア書(3章4節)を見てもイスラエルの民が多くこれを、ヤハウェの神と混合していたらしいことがわかる。ヨシヤ王の時代になって、やっと王はそれを、改革によって厳禁したのであった(列王記下23章24節)。さて創世記に戻るが、ヤコブはのちに、ラケルがこれを持ち込んだのを知ると、これを捨てさせ、地に埋めている(35章4節)。

創世記30章

一夫多妻は多くの問題を産む。これは、祝された形の結婚ではない。その家は愛の中に保たれることがない。ヤコブの家においても、その二人の妻は姉妹どおしであったため、彼女たちの苦悩は、当時でもかなり複雑で深いものがあったのではないかと推測される。このような事態を予測できず、鈍感であった彼女たちの親ラバンは、まさに当時の家父長制の代表者としてふさわしいのかも知れない。不平等・不公平は、次々と連鎖して不幸の種を薄いていく。
さてしかしそういった中、神は、人間によって無視されたほうの妻に、より大きな恵みを与えられている。当時のユダヤの人々の考え方では、子を多く授かることは神の特別な恵みとしてあり、反対に不妊は悲しみとして受けとめられていた。現代ではどういう認識であろうか。人間が抱く価値観と、神の考えられる価値観とは、必ずしも同じというわけではないことを、私たちは忘れてはならない。ヤコブの家において起きていることは、神が当時の人々の意識に応えてあげて、彼らの感じる仕方で、虐げられている者を励ますために、このようなことをされたと理解しておくべきであろう。

ヤコブに疎まれたがゆえに、神は彼女を顧みられたのであるが、姉のレアが何人も子を授かる中、やっと妹のラケル(ヤコブに愛されたほう)も子を授かった。ヨセフである。長い間待ち望んでいただけに、これもまた彼女にとって特別な恵みとして受け取られた。のちにヨセフは大いなる者となり、その生涯はイスラエルの人々に感化を与えるようになる。骨肉の醜い争いにもかかわらず、神はみごとにその恵みを分けられた。

[14節]  「恋なすび」・・・南部パレスチナに見られるナス科の植物で、小さいトマトほどの実をつけ、早くから薬用に用いられた。ラケルは、オカルト的にこの恋なすびの効力を求めたわけであるが、それは後では触れられておらず、むしろ信仰的に、神ご自身が彼女の願いを聞かれて、胎を開かれたことが述べられている。

[37節]  熟練した羊飼いであるヤコブは、白い羊と黒い山羊の大きな群れの中から、例外的な少数のものであるはずのブチやまだらのもの、すなわち自分のものとすることができると約束が交わされたものを産ませた。羊飼いであり、また羊飼いをよく知っているのちのイスラエルの人々は、ヤコブのこの知恵を楽しく語り継いだことであろう。もちろん、実際にここに書かれているようなヤコブの細工が、ブチやまだらの羊や山羊を産ませることはありえない。経験を積む中でヤコブは、どのようなかけ合わせがブチをつくるかを、独自の直感にて会得したとしか考えられないが、その秘訣を誰にも明かすことなく、後世にはこのように語り継がれるようになったのであろう。ヤコブは、今日のユダヤ人の祖先であるが、今日のユダヤ人も、ヤコブと同様に、賢くて利殖の道に長けている。それは単なる偶然ではなく、独自の方法と秘密があるのである。

創世記29章

                        2014.2.5 聖書を学び祈る会

兄エサウを欺いたために叔父ラバンのもとで居候することになったヤコブは、ここで、最愛の女性を得るが、しかしそれに至るには、彼は相当な苦渋をなめさせられる。彼はかつて、兄を出しぬいた時の報いを、今その罪の悔いとともに、深く思い知らされる。彼はしかし、神がベテルにて約束された祝福を信じて、この仕打ちに耐える。こうして彼は、その試練によって、信仰が練られていく。
  神が私たち罪人である人間に与えられる祝福には、時に苦渋をも伴うものがある。それは、神が人を愛するがゆえに与えられる訓練である。しかしまた、多くの苦難の場合には、こういった理由というものは無いと言ってよい。それがどちらの場合であるかの見極めは難しい。いずれにせよ、神はすべてを通して、それらに導きを与え、私たちの折りに応えて、無益なものをも益と変えていってくださる。

[8節]  水が少ないから、大きな石で蓋をして蒸発を防ぎ、すべての群れが集まったところで、初めて蓋を取りはずすのである。このような石の蓋は、現在でもこの地方に見られるが、男が二、三人かからねば動かすことはできないものである。しかしヤコブはこれを、一人で動かしてしまった。兄エサウと一緒に居た時は家事ばかりをして外に出ず、陰に隠れていたようだが、彼もまたかなりの怪力で、生命力に溢れた人物であることが、これから後、徐々に開花していく。

[15節] 一か月の間、ヤコブは叔父ラバンの家で、たぶん羊飼いの手伝いをしたのであろう。そして、その上手な飼いぶりと、井戸の時でも見たその怪力ぶりによって、ラバンはこの青年に、もっと居てもらえば自分の利益が増すと考えた。

[17節] 新共同訳は「レアは優しい目をしていたが」と訳したが、口語訳では「レアは目が弱かったが」とある。新共同訳は、この部分の翻訳担当者がもしかしたら非常に心優しい人であったのかも知れない。本来、旧約聖書は、かなり露骨で残酷な、また差別を含む表現を、多くの箇所でしている。そういうことが平気な時代だったのである。恐らく、この箇所の真意を伝えるのは、口語訳の方であるだろう。ある者はこの箇所を「目の美しさが足りなかった」と解釈する者も居るが、いずれにせよ、ヤコブの心が、井戸端でラケルに会って以来、彼女にぞっこんであったことを引き合いに記している箇所である。

[20節] 普通の男子にとって、愛する女性と結婚できると思う時ほど、仕事に力が入ることはない。ヤコブは、7年の歳月を、数日のように過ごした。

[25節] 花嫁はヴェールをかぶっているし、当時の習慣としては、新郎は横目でも花嫁を見ることは許されていなかったので、ヤコブはそれがレアであることを翌朝まで知らなかった。彼は怒って、ラバンに訴える。しかし、彼は初めて、今、欺かれることの本当の苦痛を知る。このとき彼は、騙すことの非をつくづくと悟ったことであろう。子山羊の皮を身につけて父イサクを騙し、兄を出しぬいたヤコブに、これほど痛烈な報いはない。神は公平である。人は遅かれ早かれ、自分が蒔いたものを刈り取ることになる(ガラテヤ6章7節)。ホセア12章3節には、ヤコブが主によって、そのしわざのゆえに罰を受けたことが記されている。

[34節] 嫌われたレアから、イエス・キリストの系図に位置を占めるユダが生まれた。神のわざと、計画は、人間の思いを越えている。

創世記27章、28章

2014.1.29 聖書を学び祈る会

25章でヤコブは兄エサウから、口約束にて長子の特権を譲り受けることを承知してもらったが、しかしそれは、元はと言えば、人の弱みにつけこんだ狡賢いやり方であった。エサウは本当に大切にすべきものを軽視したということによって、「みだらな者、俗悪な者」(ヘブライ12章16節)と厳しい批判を受けているが、それもやや厳しすぎるとも言え、またヤコブのなしたことも誉められたものではなかった。そしてそれはここに来て、いよいよクライマックスとなって表される。日の見えない父を母と共に騙して、兄の留守中に、長子としての祝福祈祷を受けてしまったのである。
 初め、ヤコブはその計画に躊躇したが、それはこれが不道徳であるからという理由によるのではなく、中途で失敗に終わるのではないかという心配からであった。けれどもそれは実行に移されたのであった。それは、非常に狡く、後になっても申し開きのできない方法であつた。このため彼は、こののち多くの苦しみを長年にわたり受けることになる。

人間の、弱さのゆえに働かす悪知恵は、かえって悲惨な結果をもたらすものである。彼は策略によって、神の祝福を継ぎ神の民の祖となるどころか、かえって一切を失ってしまった。また、彼を溺愛していた母も、当初の計画とは大きく違って、再び彼を存命中に見ることは出来なくなってしまった。親の度を過ぎる愛は、自分にも子にも不幸をもたらすと言ってよい。ヤコブはただひとり、外国の長旅に出て、様々な思いに打ち苦しめられることになる。兄に対する恐れ、善良な父を騙したことへの後悔、愛してくれる母への懐かしさ、そしてもう会えないかもしれない悲しみ、将来への不安、ひとり旅の淋しさ、そして自分自身への罪の呵責、などなど。しかし、それらを経て彼は、その魂が、神によって練られ、深められていったのである。そして、神のみわざは、彼が一切を失ったところから、そこから初めて始まったのである。

彼は旅先で、様々な苦悩、また不安に打ちひしがれているまさにその時に、神から大きな力づけのメッセージを受ける。人を欺いて逃亡している彼に、しかも人ひとりいない不安の原野において神は、彼に、「共にいる」「お前がどこに行こうとも、お前を守り、決してお前を見捨てはしない」と、神の名において約束をされる。ヤコブはここに誓いをなすが、この誓いの内容も、彼の取り引き根性が表われているものであった。しかし彼の信仰も、のちのち純化されてゆく。
 私たちは、「神が共にいてくださる」ということ、そのことこそが、すべての人にとっての本当の救いであることを知っている。クリスマスは、私たちのために与えられた、この約束の成就である(マタイ1章23節「インマヌエル」)。

創世記25章、26章       

   
                                                          2014.1.22 聖書を学び祈る会
【25 章】

 アブラハムは天寿を全うした。イサクとイシュマエルは、父のなきがらを、母のそれと同じ所に葬っている。11章の終わりより始まった長い「旅人・アブラハム」伝記が終わる。息子イサクは40才でリベカと結婚し、20年子がなく、60才で与えられた。

[24節] この双生児の物語は、個人に関するより、むしろ彼等の子孫である民族に関するものとしてとらえられている。ヤコブの子孫:イスラエル人、エサウの子孫:エドム(赤い人という意味のヘブル語)人。

[26節] ヤコブは、兄のかかとをつかんで、ひっぱり込み押しのけて、自分から先に出ようとしているような状態で生まれた。そして実際、彼は後に、兄を差し置いて長子の特権と神の祝福とを奪うようなことをする。

[29節~] よく両人の性格を表している。エサウは粗野で思慮浅く、未来のことなど少しも考えず、現実的。食欲を満たすために、神の祝福のついたアブラハム家の家督の権を売った。ヤコブは腹の空いている兄をいたわることなく、これ幸いとわずか一椀のレンズ豆で重大な特権と買い取ろうとする。先の先まで考えるが、ずるい人。

 長子の特権とは、(申命記21章17節~)当時は、一家の長となり総てを受け継ぐ。また27章の祝福に見るように、神の祝福は一人にしか下らず。またその家督の権は売買できると思われていた時代であった。エサウは神を否定していたわけではないが、信仰は狩猟に対するほど熱心ではなかった。ヤコブも正しい人ではなかったが、常に神のことは思っていたようだ。
【26 章】

 イサクの物語には、父アブラハムのような特別な記事はないが、父の信仰を堅く保ち、子孫に伝えた尊さがある。

[1節~] エジプトに行こうとするイサクを神が止めたのは、その町は、物はあふれているが、霊的に乏しかったからである。

[7節] 妻を取られはしないかと嘘をつくのは、父と同様の出来事である。が、これは筆者の用い方の間違いではないかとも考えられる。

[12節~] ゲラルの地で種を蒔いた(半遊牧)彼は、祝され豊かになるが、妬まれて現地の人に井戸をふさがれる。しかし戦わず平和的に歩むイサク。彼は井戸掘りの名人であったと伝えられるが、一種の特殊能力であったのだろう(地下水の流れを感知できる)。