キリスト教  Q&A 内藤牧師の信仰問答①入口編

   内藤牧師の信仰問答

                            ①入口編

                        日本福音ルーテル稔台教会

   270-2231 千葉県松戸市稔台7-1-2
TEL&FAX:047-362-4857

 

Q. キリスト教ってたくさんあるんですか。

A 大きく分けて、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)があります。
プロテスタントにはたくさんの教派がありますが、ルーテル教会はその中で最も大きく、また伝統のある教会です。北欧などは、国自体がこの教派です。この名は、中世に宗教改革を行なったマルチン・ルターにちなんでつけられました。

 

Q. どこの教会に行っても安心ですか。

A まずはじめに、いわゆる異端と呼ばれる偽物だけには、くれぐれもひっかからないでくだい。
(有名なところでは、統一教会、エホバの証人:ものみの塔、モルモン教などがそうです。彼らに共通点は、聖書以外の教典を持ち、そして救いのためにノルマを課します。それらは非聖書的です。詳しくは、牧師にお尋ねください。)
他はだいたい大丈夫ですが、教派によりそれぞれ個性がありますので、行って、ホッとできる教会とめぐり会えるなら、言うことなしですね。

 

Q. 宗教は何を信じても同じではないですか。

A おそらく何か信じている人は、そのようなことを言わないと思いますが、どれを選ぶかは結婚相手を選ぶようなもので、それによってやはり、得る安らぎや生き方が違ってくると思います。ですから何か選ぶ時は、本当に慎重を期するわけです。さてまた何も信じないといっても、それでは、つきつめれば人間は死ねば終わりという、空しい考えと、同じになってしまいます。
多くの宗教は人が天または仏や神を目ざし、そこに近づこうと、↑向きに心と生活が向かうように頑張ります。切磋琢磨、努力精進はすばらしいことですが、しかしどこまでやってもそれによって、完全な救いを得るとは言えないでしょう。
キリスト教は、人ではなく、神が私たちを愛し、救うために来たということを告げます。↑の努力ではなく、↓の愛が私たちを救うのです。教理としては浄土真宗にある部分似ていますが、歴史に基づく信仰であるという点が違っています。また倫理的な教えを多く含むことが特徴的です。

 

Q. 聖書なんて、非科学的ではないですか。

A クリスチャンで、偉大な科学者も数えきれないほどおられます。だいたい、聖書は理科の教科書として書かれたものではなく、人間のいのちの意味と、それに対する神の愛、また計画を表わすために記されたものですから、科学とかとは全く別な領域を扱っているわけです。たとえば恋人と海岸を歩くとき、月がきれいに見えるその心の部分を扱っているのです。その時恋人どおしの会話は、月がきれいに見える科学的な説明はしないでしょう。しかし両方とも、事実なのです。ですから聖書の天地創造のあたりなどを読んで、これはおかしいと言うことの方がナンセンスです。
さて、それはさておき、聖書にはやはりどうしても、現在の私たちの知識では納得のいかないことがあるのも事実です。その最たるものはイエスの復活です。しかしクリスチャンは、それを本当に信じています。だからこそ、私たちの復活もあると信じられるのです。死ねば終わりというのと、どっちが空しいでしょうか。

 

Q. クリスチャンでなければ救われませんか。

A そんなことはありませんが、キリストにおいてよりほかには、確信は与えられないでしょう。何教の信者であっても、その人は神によって命を与えられ、死んで同じ神さまのもとに立つのですから、すべてのことは神さまが、最もよいようにしてくださるでしょう。ただしかし、神は、私たちが生きている間から、どれだけ私たちを愛し、そのために犠牲を払ってくださったか、知ってもらいたいと強く願っています。そのことによって私たちと、深い交わりをされたいと思っておられるからです。
神は、愛する御子イエス・キリストを世につかわし、それを罪深い私たちの身代わりとして死なせるほどに、私たちを愛してくださったのです。これは歴史において、本当に起こったことです。聖書は、数千年にわたるこのことの預言と、そのことの成就を、記録しています。この出来事を信仰をもって受け入れる者には、確信と平安が、与えられます。

 

Q. クリスチャンになったら、何か生活が制限させられそうで。

A クリスチャンならこれはすべきとか、してはならないとか、特に決まった定式のようなものはありません。細かな規定を設けるのは滑稽です。クリスチャンであろうがなかろうが、良心がとがめるようなことは悪い、善いと思えることは誰でも進んでなすべきなのです。そしてクリスチャンになっても、失敗や配慮のないことの、繰り返しがあることも同じです。けれども、そこで私たちは、主イエスによる赦しと励ましを受けて、何度もやり直しをしていくのです。

 

Q. お酒やたばこについてはどうですか。

A からだを害さないかぎり、またエチケットを守り人の迷惑にならないかぎり、あなたの好きになさってよいのではないですか。嗜好品ですし、他の人と一緒にやるのもまた楽しいことでしょう。私も少々飲みます。しかし、そう言わない教会もあることを、一言つけ加えておきます。

 

Q. 家の仏壇とか墓とか、どうなりますか。

A いろいろ堅苦しい派もありますが、私たちは同じ考えにはなれません。唯一まことの神を信じ、それにのみ礼拝をささげることは、キリスト教徒の当然の行為でありますが、しかしまた、家族が大切にしている事柄やその気持ちを尊重することも、大切なことです。私は家に仏壇があっても、いっこうに気にしませんし、むしろ家族が大切にしているなら、進んで手入れをしてあげるくらいなことをお勧めします。知人の葬儀への参列などについても、同じことが言えます。遺族の方のいたみをよくわかってあげてください。焼香も問題ありません。また墓のことですが、時々墓前に行くことは当り前のことですし、丁重にお世話してあげることは自然なことです。しかしそれは故人がうかばれるためのものではありません。その人の霊は神様のもとに行って、神様に全部おまかせしてあるものだからです。またクリスチャンが遺骨をどの墓に入れられるかの問題についても、これもまた全く気にすることはありません。お寺でもどこでも心配は要りません。家の都合でクリスチャンが別の宗教の仕方で葬りをされたとしても、いっこうに救いは揺らぎませんからご安心ください。神様はそんなことで予定を変更するような、ちゃちな方ではありませんから。

 

Q. 何か今まで教会に持っていた、カタいイメージとは、少し違った感じがしましたが。

A そうですね。日本にキリスト教が入ってきたのはキリシタン迫害令が解けてから、ピューリタン(熱心な敬虔派)の影響が大きかったですしね。また初期の牧師達も、武士の出だった人が多いですから、そういった非常に厳しい精神と強く結びついてきたのでしょう。まだ少し影響が残っているのかも知れません。しかし私は、ごくごく普通の人が、ごくごく普通に信仰をしているというほうが、本当のような気がしますけれども。私自身は、いたって気楽に信仰させてもらっています。のんびりした気持ちで、自分らしく生きることができて、ホッとしています。また、そうした安心感があってこそ、本当に大切と思えることにも全力を注げるのではないでしょうか。

 

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千葉県松戸市稔台(ちばけんまつどしみのりだい)にあるプロテスタント教会です。 新京成線《みのり台駅》より徒歩1分。