創世記38章

<38章は、かなり歪んだ普通ではない物語が出てくるが、聖書はただ良いことばかりを綴った書物ではなく、イスラエルの歴史を正直に書き記し、こうした倫理的に問題のある出来事と人間模様をも隠さずに知らせている。これは他の宗教の経典と大きく違う。 ヤコブの子の一人であるユダは、カナン人の娘と結婚した。そしてエル、オナン、シェラの三人の息子をもうけた。エルは長じてタマルという嫁を迎えた。しかしエルは若くして死ぬ。長男が死んだので、ユダは次男に命じてタマルと結婚させた。昔のユダヤには、こういった習慣が法律によって定められていた。それはレビレート婚といわれるが申命記25章5節にも記されている。これは家の存続のみを考え、個人の意志を軽んじる悪しき慣習であったが、当時としては仕方のない事例であった。またそれは、あまりにも低すぎた女性の地位を、少しでも救う働きをしていた。ただしそれは、当時としてはという限定付きの譲歩した表現ではあるが。つまり、つい近代に入るまで、ユダヤの女性には、財産の相続権が幾分も無かったからである。これらは時代の限界である。本来の望ましい形としては、女性にも当然のことながら相続権があるべきであり、男系のみ、それも長子のみを優遇しようとしたユダヤ社会が、相当に無理な歪みを、あちこちに露呈していったことは否めない。そういう事情の中、ここに記された悲劇が始まっているのである。 さて、エルに続きオナンも、宗教上の理由から神の審判を受けて死ぬ。彼の罪は、行為を引き受けていながら、義務を果たさずごまかしたことにより、死んだ兄とタマルに対して不誠実であったということで死の審判を受けたのであろう。彼が父から命じられたことに不服を覚えていたなら、それを正直に話し、悪い因習をそこで打ち切る努力をすべきであっただろう。その努力もなしに表と裏を使い分け、ごまかそうとすることは、何の解決にもならないし、それが命に関することであったならば、なお一層、重大な事柄であり、その不誠実な態度は自分に返ってくる。事は違えど、同様のごまかし、また不誠実な態度が、いかに現代において社会に満ちていることかと思う。権力者の設定する悪法に屈しているのも同様のことではないだろうか。ところで話を戻すが、長男に続き次男も死んで、ユダは、このことが起こったのは、何かこの嫁に不吉な運命が付きまとっているからではないかと考えた。そこで、三男がまだ幼かったことを口実に、タマルを実家に帰らせ、そのまま遠ざけておこうとした。しかし、この中途半端な口先でだましたタマルヘの仕打ちが、ユダの根本的な悪であった。タマルはこの嘘を見抜き、そして最後の手段に訴えた。彼女は遊女に変装して義父に近づき、子種を宿した。三男にではなく義父のユダに近づいたのは、三男には近づける隙がなかったのと、ユダがやってくる羊の毛を刈る儀式の祭には、そういった羽目をはずした遊び方をするのが世間では普通にあったからであった。 タマルの行為は、人倫にそむくことであったが、当時、家というものが極度に重視されて女として子を産まぬということが大きな恥とされていたことを考えると、彼女のなしたことは情状酌量の余地があった。こののちタマルの妊娠が明るみに出て、真相がわかり、非を悟らねばならなくなったのは、ユダのほうであった。 こうした破れを持った家系の末に、救い主が登場してくるというのは、意味深いことである。マタイ1章の系図は、明らかにそのことを意識した書き方である。ユダヤの系図は男系のみで女性が省かれる場合も多いが(それは差別であり問題だが、そのことはここでは扱わない)、そこには存在を伏せたい女性のみ記されている。キリストは、罪が絡み合って泥沼のようになっている私たち人類を、救いにこられたのである。 次回:4月23日(水)創世記39章