創世記34章、35章

2014.3.12 聖書を学び祈る会

34章は、随分ひどい話である。物事の起こりも結末も、何らほめるべきものはない。しかしこのような記述も赤裸々に報告するというのが、人間の罪深さとそれにもかかわらず注がれる神の愛を扱う、聖書の特徴である。

ヤコブの娘ディナは、シケムの町の首長の息子(彼の町と名は同名である)に汚される。似たような事件はシケムの町では度々行なわれたことであったようだが、イスラエル民族にとってみれば、あってはならない不埒な悪業であった。しかし問題は更に続く。

シケムは最初ディナを汚したのではあったが、今度は真剣に愛するようになったので、ヤコブの家へ父と共に求婚の申し出に来る。その態度は丁重であったと思われる。しかしディナの兄たちは激しい怒りを隠しながら、シケムの一家を欺き、罠にかけて彼らを殺すのである。シメオンとレビは、許すべからざる強姦という罪に対する神の罰を、神に代わって執行したつもりであっただろう。しかし彼らのなしたことは、ただ、個人的な怒りに任せて人を殺すということであった。外典ユディト書はこのことを、ある程度までは肯定的にとらえてはいるが(9章2~4節)、正典は、このゆえに彼らが呪われ、他の部族の中に散らされ消滅するであろうことを語った(創世記49章5~7節)。

自分の本音をさておき自己を正当化するという危険は、誰にでもあるが、クリスチャンはまた特に、神の言葉をそのために使うことがないよう気をつけなければならない。

35章はヤコブのベテル上りを記している。彼は一族をひき連れ、かつて彼の苦しみの日に答えてくださった神に、一族をもってこれに仕えることを約束しに、出向いて行く。そこは、彼がかつて石を枕にして仮寝した場所であり、罪の後悔と不安にさいなむただ中で、神が彼に夢枕に現れてくださった場所であった。そこにたどり着き、礼拝をささげたとき、彼は感無量であったろう。彼はそこで神の祝福を受けた。

35章はまた、最愛の者を失う悲しみについても取りあげている。神から祝福を受け、これからというときに、ヤコブの妻ラケルは世を去ってしまった。突然であった。しかもその日は、第二子出産の喜びの日となるはずであった。苦楽を共にというよりは苦労ばかりを味わわせた、彼女の死は、ヤコブにとってあまりにも深い悲しみであった。この悲しみは、ヤコブが世を去る最期の日まで続く。彼は死の床においても、この日の悲しみを口にしている(48章7節)。

神から祝福を受けた者でも、愛する者を突如として失う。人の命は儚(はかな)く、死は強い。しかし神は私たちに、来世と永遠の命とを約束される。また神は来世のことだけでなく、この世においても、決して一人の人の命と死を無駄にはしない。ラケルがこのとき死を賭して産んだベニヤミンは、ずっと後イスラエルを動乱の時代から守った、初代の王サウルの先祖となる。

次回:3月19日(水)創世記36,37章