創世記32章、33章

2014.2.26 聖書を学び祈る会

ヤコブの故郷への帰還は、はじめは、叔父ラバンのもとを多くの財産を持って去り、意気揚揚としていたかも知れない。しかし、だんだんと故郷の空が近づくにつれ、彼の心には暗雲が広がった。騙して、激しい怒りを買ったままになっている兄は、はたして自分を赦して、喜んで迎え入れてくれるだろうか。それとも、まずます恨みはつのって、自分の帰りを手ぐすね引いて待っているのだろうか。

彼は何とか、兄に受け入れてもらおうと思って、策を講ずる。自分の家畜を二手に分け、たとえエサウが攻撃してきても片方は残るようにした。また、先頭にエサウヘの贈り物として、家畜の群れを行かせ、しかもそれを第二、第三の群れに分けて隔てを置き、エサウがやってきた時、何とか彼の心を徐々になだめるようにと工夫をしたのである。

ここまでは、ヤコブの抜け目なさがよく出ている。しかし、彼はただそうした策をめぐらしただけでは、安心を得ることはできなかった。いくら知恵を絞っても、拭い払うことのできない、あまりにも大きな不安と恐怖が彼の心を襲いかかっていた。彼はそのために一晩、ひとり川のこちら側に残り、必死で神の恵みを乞うて、祈りをするのである。32章10~13節に表わされた彼の祈りは、もはやかつての祈りのような、神に対する傲慢な思いというものはない。彼は長い年月を通し多くの試練を経て、神に練られ、その祈りはいつの間にか、深くされていったのである。彼は本当に、心を貧しくして祈った。このときに、神は、御使い、あるいは見知らぬ人の姿をとって、彼の前に現われたのである。そして、不安にさいなむ彼と、組み打ちをされた。

ヤコブもまたこれと、全身の力をふりしぼって格闘をした。不安の中で、しかし彼は神に全身をぶつけ、しがみ、叫び、祈った。これほどの激しい信仰告白はない。そしてまた神の恵みは、本来は全く勝負にならない力と権限を持った方が、人間の悩みの同一地盤のところにきて、対等に、もみ合ってくださるということであった。

指一本で、ももの間接をはずせる力のある方が、不安で必死になって恵みを乞うてくる者に対して、それを身体で全て、受けとめてくださるのである。この神は、泣き叫び体当たりでくる子供を、そのまましっかりと受けとめる親の姿に似ている。

神が私たちと、まともに付き合い、とっ組み合いをしてくださるということは、私たちにとって大きな慰め、また励ましである。

ヤコブはこの後、神が自分のそばにおり、自分のすべてを受けとめていてくださることを知って、大きな平安を与えられる。この後、彼は兄エサウのもとに向かうとき、もはや全てを神に委ね、不安は消え、先頭に立ってゆくのである。神に全身をぶつけ、神に克服され、神に祝福をされるとき、人は新しくされるのである。のちにイスラエルの子孫は、動物のももの肉を食わなくなった。この美味しい部分を切り捨てるたびに、ヤコブと神の組み打ちのことを思い出して、自らの人生にもそのように接してくださる神の恵みを心に刻むためである。