創世記29章

                        2014.2.5 聖書を学び祈る会

兄エサウを欺いたために叔父ラバンのもとで居候することになったヤコブは、ここで、最愛の女性を得るが、しかしそれに至るには、彼は相当な苦渋をなめさせられる。彼はかつて、兄を出しぬいた時の報いを、今その罪の悔いとともに、深く思い知らされる。彼はしかし、神がベテルにて約束された祝福を信じて、この仕打ちに耐える。こうして彼は、その試練によって、信仰が練られていく。
  神が私たち罪人である人間に与えられる祝福には、時に苦渋をも伴うものがある。それは、神が人を愛するがゆえに与えられる訓練である。しかしまた、多くの苦難の場合には、こういった理由というものは無いと言ってよい。それがどちらの場合であるかの見極めは難しい。いずれにせよ、神はすべてを通して、それらに導きを与え、私たちの折りに応えて、無益なものをも益と変えていってくださる。

[8節]  水が少ないから、大きな石で蓋をして蒸発を防ぎ、すべての群れが集まったところで、初めて蓋を取りはずすのである。このような石の蓋は、現在でもこの地方に見られるが、男が二、三人かからねば動かすことはできないものである。しかしヤコブはこれを、一人で動かしてしまった。兄エサウと一緒に居た時は家事ばかりをして外に出ず、陰に隠れていたようだが、彼もまたかなりの怪力で、生命力に溢れた人物であることが、これから後、徐々に開花していく。

[15節] 一か月の間、ヤコブは叔父ラバンの家で、たぶん羊飼いの手伝いをしたのであろう。そして、その上手な飼いぶりと、井戸の時でも見たその怪力ぶりによって、ラバンはこの青年に、もっと居てもらえば自分の利益が増すと考えた。

[17節] 新共同訳は「レアは優しい目をしていたが」と訳したが、口語訳では「レアは目が弱かったが」とある。新共同訳は、この部分の翻訳担当者がもしかしたら非常に心優しい人であったのかも知れない。本来、旧約聖書は、かなり露骨で残酷な、また差別を含む表現を、多くの箇所でしている。そういうことが平気な時代だったのである。恐らく、この箇所の真意を伝えるのは、口語訳の方であるだろう。ある者はこの箇所を「目の美しさが足りなかった」と解釈する者も居るが、いずれにせよ、ヤコブの心が、井戸端でラケルに会って以来、彼女にぞっこんであったことを引き合いに記している箇所である。

[20節] 普通の男子にとって、愛する女性と結婚できると思う時ほど、仕事に力が入ることはない。ヤコブは、7年の歳月を、数日のように過ごした。

[25節] 花嫁はヴェールをかぶっているし、当時の習慣としては、新郎は横目でも花嫁を見ることは許されていなかったので、ヤコブはそれがレアであることを翌朝まで知らなかった。彼は怒って、ラバンに訴える。しかし、彼は初めて、今、欺かれることの本当の苦痛を知る。このとき彼は、騙すことの非をつくづくと悟ったことであろう。子山羊の皮を身につけて父イサクを騙し、兄を出しぬいたヤコブに、これほど痛烈な報いはない。神は公平である。人は遅かれ早かれ、自分が蒔いたものを刈り取ることになる(ガラテヤ6章7節)。ホセア12章3節には、ヤコブが主によって、そのしわざのゆえに罰を受けたことが記されている。

[34節] 嫌われたレアから、イエス・キリストの系図に位置を占めるユダが生まれた。神のわざと、計画は、人間の思いを越えている。