創世記27章、28章

2014.1.29 聖書を学び祈る会

25章でヤコブは兄エサウから、口約束にて長子の特権を譲り受けることを承知してもらったが、しかしそれは、元はと言えば、人の弱みにつけこんだ狡賢いやり方であった。エサウは本当に大切にすべきものを軽視したということによって、「みだらな者、俗悪な者」(ヘブライ12章16節)と厳しい批判を受けているが、それもやや厳しすぎるとも言え、またヤコブのなしたことも誉められたものではなかった。そしてそれはここに来て、いよいよクライマックスとなって表される。日の見えない父を母と共に騙して、兄の留守中に、長子としての祝福祈祷を受けてしまったのである。
 初め、ヤコブはその計画に躊躇したが、それはこれが不道徳であるからという理由によるのではなく、中途で失敗に終わるのではないかという心配からであった。けれどもそれは実行に移されたのであった。それは、非常に狡く、後になっても申し開きのできない方法であつた。このため彼は、こののち多くの苦しみを長年にわたり受けることになる。

人間の、弱さのゆえに働かす悪知恵は、かえって悲惨な結果をもたらすものである。彼は策略によって、神の祝福を継ぎ神の民の祖となるどころか、かえって一切を失ってしまった。また、彼を溺愛していた母も、当初の計画とは大きく違って、再び彼を存命中に見ることは出来なくなってしまった。親の度を過ぎる愛は、自分にも子にも不幸をもたらすと言ってよい。ヤコブはただひとり、外国の長旅に出て、様々な思いに打ち苦しめられることになる。兄に対する恐れ、善良な父を騙したことへの後悔、愛してくれる母への懐かしさ、そしてもう会えないかもしれない悲しみ、将来への不安、ひとり旅の淋しさ、そして自分自身への罪の呵責、などなど。しかし、それらを経て彼は、その魂が、神によって練られ、深められていったのである。そして、神のみわざは、彼が一切を失ったところから、そこから初めて始まったのである。

彼は旅先で、様々な苦悩、また不安に打ちひしがれているまさにその時に、神から大きな力づけのメッセージを受ける。人を欺いて逃亡している彼に、しかも人ひとりいない不安の原野において神は、彼に、「共にいる」「お前がどこに行こうとも、お前を守り、決してお前を見捨てはしない」と、神の名において約束をされる。ヤコブはここに誓いをなすが、この誓いの内容も、彼の取り引き根性が表われているものであった。しかし彼の信仰も、のちのち純化されてゆく。
 私たちは、「神が共にいてくださる」ということ、そのことこそが、すべての人にとっての本当の救いであることを知っている。クリスマスは、私たちのために与えられた、この約束の成就である(マタイ1章23節「インマヌエル」)。