創世記48章、49章

 

2014.6.18 聖書を学び祈る会

48章、49章は、ヤコブ(イスラエル)の臨終について詳しく記している。ヨセフは

父のもとにいないで宰相として朝廷にいたから、父が病んだとき人が知らせてくれたので

ある。彼は急いで、二人の息子を連れて父のもとに行った。

ヤコブはヨセフを愛していたので、ヨセフの二人の子を、彼の直接の子として、しかも

長男ルベンと次男シメオンと、同じように扱うことにした。二人を養子縁組したわけであ

るが(5節)、このことはヤコブがヨセフに対し特別な愛情を持っていたことを表わして

いる。それは他の息子たちに比して、三倍の祝福であった。ヨセフの母ラケルは、ヤコブ

の最愛の妻だったからである。彼女を亡くしたことは最期まで、彼の最も大きな悲しみで

あり、彼は臨終までそのことが心に残っていた(7節)。

ヤコブは、ヨセフとその子たちを祝福した。そのとき彼は神の名を、三重の仕方で呼

んだ。第一に、父と祖父とが仕えた歴史的な神。第二に、自分を今まで養ってくださった

神。第三に、天使として現れて、危ういところから度々救ってくださった神。彼は、この

神との生ける関係が、子どもたちによっても受け継がれてゆくことを願った。羊飼いであ

ったヤコブは、神の今日までの養いを、自分の飼い主である神の恵みとして深く感じと

った。第三に挙げた天使は、神ではないが、創世記の時代においては、その区別はまだは

っきりとは意識されていなかった。また事実、神は天使を通して、ヤコブと直に関わりを

持たれたのであった。

ヤコブは、ヨセフの二人の子を祝福する際にあたり、霊感によって、次男エフライムの

子孫が長男マナセの子孫よりも強くなることを知り、そのことを預言して言った。ヨセフ

は、父の右手が自分の次男の方に置かれているのを見て(ヤコブは手を交差してまで右手

を次男の上に置いていた)、長男の方に置いてほしいと願ったとあるが、当時は右の手に

よる祝福の方が、より大きな祝福があると考えられていたからである。しかしヤコブは、

それを拒んだ(19節)。

神の選びは、人の選びまた習慣とは異なる。神はエサウよりもヤコブを、ルベンよりも

ユダを(8~12節)、ゼラよりもペレズを(38章29節)、そして今またマナセより

もエフライムを選ばれた。ルベンやシメオンよりもユダが選ばれたのは、兄弟たちの中で

ユダが最も愛情深い者だったからではないだろうか。

ユダは、自分よりも愛する者のために、自分を犠牲にしようとする者であった(43章

9節、44章33節)。また、自分の過ちを指摘された時にも、即座に懺悔のできる心の

開かれた者であった(38章26節)。彼は、己れの小ささを知り、神の偉大さと憐れみ

を乞う者であった。またそれゆえに、他者に対しても情愛深い者となれたのではないだろ

うか。彼とは対照的に、シメオンとレビは父から、その残虐さゆえに批判され、神からも

退けられる(5~7節)。主がダビデを選ばれた時、『人は目に映ることを見るが、主は

心によって見る』(サムエル記上16章7節)とある通りである。

今日でも神は、多くのよい才能ある者を用いられず、人の目からはむしろ不適当と思わ

れるような器を、ご自身のために使われることがある。それは人に誇りを与えるためでは

なく、神に栄光が帰せられるためである。聖書はそのことを教えている。