創世記45章

2014.6.4 聖書を学び祈る会

ユダの言葉に、ヨセフは兄たちがもはや過去のようでないのを見た。ヨセフは込み上げ

てくる思いで、自分を制することができなくなり、官邸にいる他のすべての者をその席か

ら去らせた。兄弟たちだけになった時、彼は声をあげて泣きながら、母国語で自分がヨセ

フであることを打ち明けた。驚いたのは兄たちである。

彼らは口をきくこともできず、茫然と立ちつくした。と同時に、非常な恐れを感じた。

あんなひどい目に合わせた弟ヨセフが、エジプトの宰相ならば、自分たちはどんな仕返し

をされるかわからない。しかしヨセフは、兄たちに、自分が彼らを赦していること、また

神はこれらの出来事の中にも、恵みと導きをお与えになったことを告白する。ヨセフは兄

たちのしたことが、よかったとは決して言わない。しかし彼らの悪意でしたことですら、

神は利用し、ご自身のわざを成し遂げられたと語る。神は罪のただ中にも、罪の結果をも

用いて、恵みを備えられる。神を畏れ、信じ、神と共にいたヨセフは、自分の個人的な苦

悩を越えて、この神の恵みの摂理を体験したのである。

ヨセフは、のちに来たるべきメシア(キリスト)を予見させる型として、聖書学者たち

から見られることがある。それは、単にエジプトへ下ったという旅路の重なりを意味する

からではなく、彼は、苦しめられることによって、彼を苦しめた者を救ったということに

おいて、働き的に重なるからである。ヨセフの兄たちが彼を奴隷に売って(本章4節には

そうあるが、これは37章28~30節と比べると不正確で、おそらくは37章が正しい

内容であろう。兄たちにとってヨセフは、そんなこととは知らず、死んでしまったに違い

ないと思われていたからである。聖書にはこのように、口伝経路の違う幾つかの資料が編

集されて組み合わされる過程で、内容に矛盾が生じる場合も多々ある。読者は、注意して

読む中で、新たな発見や、ときにはそれに伴う霊的に意味深い真実に出会うことも起こり

得る)、エジプトに彼が送られたから、彼はエジプトの宰相となり、地中海世界の大飢饉

のとき彼自身と彼の父と兄弟たちを救うことができた、というわけである。

さて、ではしかし、それならば、兄たちのした悪事は、悪事ではなかったのだろうか。

またこの悪事がなかったら、神のアブラハムに対してなされた約束は、すたれたのであろ

うか。そうではない。悪は悪である。悪はなくても善はなされる。ヨセフの兄たちが罪を

犯さなくても、ヨセフは何らかの道を通って、エジプトの宰相になったであろう。しか

し、神は、罪あるところにも恵みをほどこし、また無益なものにも意味を与え、混乱ある

ところにも秩序を与えていってくれるお方である。創世記最後の章(50章)でも、兄た

ちの心配に対し、ヨセフが再び赦しを述べる場面で、20節にある通りである。

かくしてヨセフと兄たちの和解は成り、またヨセフも神によっていつの間にか成長さ

せられ、また、イスラエル全部族にとっても、更には周辺世界全体にとっても大きな救い

が、ここに起こった。まさに、ローマ書8章28節を思い起こさせる物語である。