創世記43章

2014.5.21 聖書を学び祈る会

43章は、42章とは違う資料から採られ、編纂されたと考えられている。ヤコブの名がイスラエルという名で呼ばれるのもその一つの特徴であるし、幾つか42章とは、内容的にも統一されていない所もある。例えば、この43章では、ヨセフが兄弟たちに、父はまだ生きているか、弟があるかとしきりに尋ねたので答えてしまったとあるが(7節)、42章では、聞かれない先に、兄弟たちがスパイでない説明として自分から語ったとある(13節;ついでで補足すると、これがスパイでないことの説明であるとは、普通理解しがたい内容であるが、つまりは十人もグループで来たのは何かの企みを持った集団と嫌疑をかけられたのを、本当に自分たちは兄弟なんですと必死で説明した内容なのであろう)。これらの違いは、それぞれの元になった資料が異なることを示している。

創世記編纂者は、このヨセフ物語においては、あらゆる逆境にありながら不平や怒りを他人にぶつけるのでなく、神の導きを静かに待つ生き方をしたヨセフという人物に焦点をあてて、いきいきと物語を伝えることを心がけたため、別々の資料をつなぎ合わせる過程で、少々の矛盾点には気がつかなかったのであろう。前の42章で扱った、ヨセフの艱難の年月計算もその一つである。

聖書はこのように、完全無欠の書というよりも、どんな内容を大事に伝えようとしたかということが肝腎なことであり、よって例えば、聖書の中に書かれてあるごく一部の言葉が強調されて、理性や良心までも歪めるような教えがなされることがあっては絶対にならない(例えば、第一ペトロ2章13節の言葉が悪用されたり)。

 

さて42章では、ヨセフの十人の兄たちの中で、ルベンが主役をつとめているが、この43章と次の章では、ユダがそれに代わっている。37章でヨセフが兄弟たちに殺されようとした時に、二人の兄がそれを止めたとあるが(21,27節)、それはルベンとユダであった。本章ではユダに焦点が少しあてられる。

飢饉がますます激しくなった時、父イスラエルは、もう一度エジプトに行って穀物を買って来いと息子たちに命じる。しかしユダが答えて言うには、今度行く時は、末の子ベニヤミンも一緒でなければならないのだと説明をする。もちろんそれは、イスラエルの了承できないところである。しかしこの時、ユダが、自分自身の身をもってベニヤミンを請け合うことを申し出た。すなわち、ベニヤミンがもし帰れないような状況になれば、自分がその身代わりになるという覚悟である。これはルベンが、もしベニヤミンが帰らないことがあったら、自分の二人の子を殺して下さいと言ったのよりも、誠実にして情愛深い態度だったのではないだろうか。

 

父イスラエル(ヤコブ)は、ユダの誠意に満ちた言葉に動かされ、ついに決断をした。この時のヤコブは、実に一生涯のうちでも、最も苦しい時であった。なぜなら彼はこれまでもしばしば、苦しい日に会ってきたが、しかしそれらはいずれも、自分に関する苦しみか、もしくは自分の知らぬところで起こった出来事であった。けれども今は、彼は自分で決断して、最も愛する末子を、殺されるか奴隷にされるかという恐れのある所へと、手放すのである。彼はこの時、幾多のとき彼と共にいて、彼を危機から救い出してくださった神に、すべてを託する。祈った上で万事を神の御手にゆだね、自分にとって最悪の事態にたとえなろうとも、それを受けとめていこうと決意をする。そして、なし得る全ての配慮を終えて、息子たちを旅立たせる。

私たちも、人生での大きな決断のときにおいて、安全また成功を確実にするものは何も無い。しかし神に祈り求めていく者には、神は必ずや最善を尽くしてくれるだろうという安らぎが与えられる。神に祈り、神に委ねた者だけが、前に向って力強く歩むことができる。祈らない者や、ただ祈っても願いを述べるだけでその先のことを神に委ねない者は、不安がつきまとい、いつまでも前に向って歩みだそうという覚悟ができない。高齢のヤコブが、祈った末に与えられた覚悟を見よ。彼は、真剣な願いは持ちつつも、しかしその先のすべてを、たとえどのような結果になろうともよいと神にゆだね、勇気をふるって歩み出すことができた。祈り、委ねる者のみが、真の強さを持つことができる。

 

次回:5月28日(水)創世記44章