創世記40章、41章

2014.5.7 聖書を学び祈る会
ポティファルの妻の悪だくみによって、ヨセフは監獄に入れられたが、彼は希望を失わなかった。そして、与えられた場で、前向きな生き方をした。彼がそのことをできたのは、「主がヨセフと共におられ」と聖書が何度も記しているように(39章)、彼もまたそのことを信じることができたからに他ならない。
信仰による希望。彼は、神によって錬られ、成長をしてゆく。神が共におられることを信じることによって、試練は忍耐と練達に変えられ、希望をも生み出していった(ローマ5章3,4節)。そして更に、それは、彼個人のことにとどまらないばかりか、多くの人々を救済する結果へと導かれていく。
ヨセフがファラオの侍従長の屋敷で、奴隷でありながら執事の役までこなし、家をますます繁栄させた経験、そして次には、無実の罪で入れられた監獄でも、決して自暴自棄になるのではなく、他の人々の世話まで進んでなし、様々な問題を抱えているはずの囚人たちさえもよくまとめ続け、囚人たちからも監守長からも信頼を得た経験。それらは、やがてエジプトの総理大臣の任を命ぜられるための、準備期間として、神が備えられた訓練のときであった。

ヨセフが獄で過ごしていたある日、エジプト王の給仕役と料理役とが、同じ獄につながれ、それぞれ夢を見て、思い悩んでいた。夢は、隠された形で将来の出来事の予言を含んでいると信じられていたが、一般にはそれを解くのには、特別な技術を持つ者や占い師的な専門家が必要だと考えられていた。しかしヨセフは、「解くことは神による」と言った。それは、神への信頼と忠誠から、神の示したもうことを見るのだと言うのである。したがってその夢解きは、当時の魔術的な夢判断に対する、根本的な挑戦でもあった。ヨセフが言うところは、未来は、神の御手の内にのみあるのであって、これを人間の力や技術で知ったり、コントロールすることは出来ないということである。この言葉を、彼はエジプト王の前でも語った。彼は自分の力で夢を解こうとしたのではなく、神が告げ知らせてくれることを伝えたのであった。王と家来は、その解き明かしに納得し、感心をした。

上記が、聖書がこの物語で告げる内容である。しかし、今日での夢の位置づけは、どうすべきであろうか。聖書は、記されたその時代によって、限界を持つ部分と、限界を持たない不変の真理の部分との両方があり、私たちはそれを見極める必要がある。この場合、夢は言うまでもなく、今日では現実の何かを前もって示すものなどではないことは、理性ある者ならば明白な答である。すると、聖書が記した内容はどういうことであるか。当時は、夢というのが、大へん重要視されていた時代であった。そういう時代であったので、神は、このような特別な啓示の仕方をされたこともあったのだというふうに、この記事を読んでもよいだろう。
今日、もしヨセフが生まれ、同じような舞台に立つとしたら、彼は夢の解釈という方法ではなく、ずばり為政者のなすべきことを、世界の状況をみて倫理的な視点で指摘したであろう。それでも、聞く・聞かないは、その為政者自身に責任が問われている。21世紀に入ってすぐ、某大国の大統領は国連の制止を無視し、また神がローマ法王その他多くの人々を通し語った忠告にも耳を傾けず、戦争を起こしたことは、取り返しのつかない過ちであったことを、引退した今からでも反省し、公に言い表わすべきであろう。

次回:5月14日(水)創世記42章