マルコ福音書 16章1節~20節

 2013.5.22 聖書を学び祈る会
[復活する](16:1~8)

 復活は、キリスト教において根幹をなす信仰である。私たちの復活の希望は、イエス・キリストが初穂として甦られたという事実に基づいているのであって、そうでないとするなら、これほど惨めな者は無いであろうとは、パウロも言っていることである(第一コリント15章)。主の復活は、日曜日の朝早くであった。それゆえキリスト教会では、日曜日を主の日と呼んで、礼拝を守るのが通常となっている。

 さて、イエスが十字架にかかられてから三日目の朝、数名の女性たちがイエスのところに、香油をささげたいと思ってやってくる。彼女たちはしかし、だれがあの大きな石を動かしてくれるだろうかと、心配をしていた。しかし、行ってみるとそれはもう取り除かれていた。マタイ福音書を見てみると、ユダヤの宗教家たちは、だれもイエスの遺体を盗んだりできないように、その重い墓石に封印をして、番人まで付けていたとあるが、そのことがかえって、イエスが何か超自然的な方法によって、復活したということを、証明するものとなった。

 当時生きていた世界的な歴史家のヨセフスは、ユダヤ人であり、イエスをキリストとは認めていない立場でありながら、これらの騒動があったことだけは事実として記録をしている(民衆の信望を集めたイエスなる者がローマにより十字架で処刑され葬られたが、三日後に遺体が消え、弟子をはじめ多くの信者たちによって、イエスは甦ったとの噂が広まった、という内容)。これらをどう受けとめるかは、やはり聞く者の信仰にかかっていると言えよう。

 さて、婦人たちは神の使いに出会い、み告げを受けるが、異常な経験に、驚きのあまり声も失ってしまう。それは恐怖の感覚であったと、福音書記者は正直に記している。そして実は、本福音書は、この節をもって終わっているのである。あまりに衝撃の出来事のまま、記載はこれで終わっている。9節以降は[  ]書きとなっているが、これは、オリジナルに近い重要な写本たちに書かれていない記事を指し、おそらく、本福音書がいったん発刊された後に、補足文として、マルコないしその弟子のグループによって追加されたものである。この福音書を伝道旅行のさ中に書いたマルコが、いかに多忙であったかを物語る一面でもあり、またもう一面には、弱く虐げられた立場の女性たちの衝撃の経験が、すべての福音宣教の始まりでもあったことを意味する上で、第一期のこの書の終わり方は、それなりに興味深いものである。

[マグダラのマリアに現れる](16:9~11)

 9節以降は多くの写本に欠けているが、教会の信仰により加筆されたものであり、復活の主の証人たちの証言に基づき編纂されていることには変わりなく、読んでひもとくことに何ら問題は無い。

 復活の主に最初に会うことができたのは、マグダラのマリアであった。彼女はかつてイエスに、七つの悪霊を追い出してもらった者である(ルカ8:2)。イエスは復活されてからも、私たちの遠い存在にある方ではなく、弱さを負う私たちの友である。

[二人の弟子に現われる](16:12~13)

 これはルカ24:13節以下に記されている、エマオ途上の二人の弟子の物語の簡略紹介であろう。ルカの記述でも、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とあるが、マルコでもはっきりとそれは「イエスが別の姿で御自身を現された」からであったと記している。これは今日でも主が最も苦しい立場に置かれている人に御自身を投影されていることを、覚えさせる出来事ではないだろうか。

[弟子たちを派遣する](16:14~18)

 復活のイエスは弟子たちを、新たに派遣された。福音を全世界に伝え、信じる者を救われるためである。教会はこの使命を負うている。

 「信じる者にはこのようなしるしが伴う」とあるのは、聖書が記された時代のしるしであったろう。神は当時それを用いられたのである。しるしというのは過ぎ去るものであり、それに固執する者は、むしろ不信仰であろう。今が当時のようではなくても、私たちの信仰や使命は消えないのである。

[天に上げられる](16:19~20)

 イエスは今も私たちと共に働いておられる。最も大きなそのことのしるしは、私たちが目に見える証拠は何もないのに、信仰を与えられ、喜びと希望に生かされていることである。