マルコ福音書 14章22~52節

2013.5.1 聖書を学び祈る会

[主の晩餐](14:22~26)

 聖餐式は、キリスト教会の重要な聖礼典のひとつである。それは、イエスの行なわれた最後の晩餐に基づいている。過越には、神殿や各地でも、牛や羊をほふって犠牲としてささげることがなされていたが、そのことは、キリストが小羊として、十字架で犠牲の死を遂げられることを暗示していた。イエスはそのことを、この晩餐の時に明らかにされた。また、ご自身が地上を去ってからも、残る民と実際の交流をなさる約束として、この聖餐式を制定なされた。私たちは、キリストが再び来られる日まで、彼が私たちを贖われた死を覚え、聖餐式を守り、これを通して主と交わりを深め、恵みをいただくのである。

[ペトロの離反を予告する](14:27~31)

 イエスと弟子たちは、食事の後、オリーブ山の方へと出かけた。その途中で、イエスは弟子たちに、彼らがイエスから離れ、四散するであろうことを予告なさった。
 ペトロは、他の者がたとえそうなっても、自分は決してそのようなことはいたしませんと固く誓った。他の者も同じように言ったが、彼らは皆、イエスから離れることになる。意気込みや覚悟だけでは、私たちはこの世で信仰を全うすることはできない。神様のまもりがなければ、私たちは脆い。そのことを認める謙遜さがない者は、どこかが神との関係において誤っていると言えよう。

[ゲッセマネで祈る](14:32~42)

 イエスが負う苦難は、外面的肉体的苦難よりも、精神的霊的苦難の方がもっと深かった。それはイエス自身「悲しみのあまり死ぬほどのものである」と言うほど、激しいものであった。イエスは、この杯を、できれば取り除いてくださいとまで祈る。「杯」は神の刑罰として象徴的に用いられた言葉。イエスは神の子でありながら、罪人として神に反逆する者の刑罰を受ける。この霊的苦悩は、私たちの想像を越えている。しかしそれでもイエスは、「しかし、御心に適うことが行なわれますように」と祈られた。

[裏切られ、逮捕される](14:43~50)

 イエスの顔は大勢に知られていたであろうが、間違いなくこの人だと知らせるために、ユダは手引きと合図をした、と長い間、この箇所は解釈されてきた。しかし近年、ユダは祭司たちにイエスを誤解を解かせるため引き合わせることだけを考えていたのに、まさかこんな事態になるとはと、イエスに対し彼なりの信愛のしるしを示しておきたかったのではないかという解釈もなされるようになってきている。マタイに記された彼の前後の行動からみて、それはむしろ自然な解釈である。しかしその場合、ヨハネ12:6はヨハネの思い込みということになるが、十二弟子の中でも最も思い込みの強かったヨハネであるから、そういうことも有っておかしくはない。聖書には、他にも明らかな矛盾の箇所が幾つもある(ユダの死に方や、十字架刑の左右の強盗の言葉や、他にもあちらこちらに)。
 さて、兵士がイエスを捕らえると、そばにいた者の一人が、剣を抜いて相手の片耳を切り落としたとある。ヨハネ福音書によると、これはペトロであった。しかしそのペトロの熱情でさえ、長くは続かなかった。

[一人の若者、逃げる](14:51~52)

 この若者が、この福音書を書いたマルコと呼ばれるヨハネで、最後の晩餐の行なわれた家の子であったと推測されている(使徒12:12)。