マルコ福音書 14章3~21節

 2013.4.24 聖書を学び祈る会
[ベタニアで香油を注がれる](14:3~9)

 ヨハネ福音書ではラザロの家でマリアがイエスの足に香油を注いだことになっているが、マルコ福音書では名は記されず、また頭に注いだとある。しかしこういった微妙な違いは、大した問題ではなかろう。女が香油をイエスに注ぎかけたことは、これから死地に赴こうとするイエスが、本当はキリスト(救い主/元の意味は「油注がれた者」)であり、世界の王であり、救い主であることを偶然にも暗示した。この女はそのような深い意義は知らず、最高のもてなしの慣習に従って、ただ心からの敬いをもって行なったのであろう。普段から愛し敬っていたイエスに、ただならぬ時が近づいているのを直観的に察知して、今できる精一杯のことをしておきたかったのである。ナルドの香油は、ヒマラヤの麓にしかない樹木の根からわずかに取れる香料で、わずか1グラムが1デナリ(男子1日の労働賃金)もする貴重なものであった。

[ユダ、裏切りを企てる](14:10~11)

 香油をささげた女の尊い行為とは対称的に、ユダの裏切りは行なわれた。彼の裏切りの原因は、単なる金(マタイ26:15には銀貨30枚とある)欲しさではなかったであろう。イエスをこの世的英雄と見る一般的メシヤ観に従って弟子となった彼が、イエスのやり方を見て、非常に要領が悪いと思い、宗教界の長たちとイエスがゆっくり話し合いの時を持ち、彼らと折り合いを付ければ、全てが巧くゆくと考えたのであろうと推測される。彼なりに、善かれと思ってなしたことであろう。それでなければ、後に後悔して首を吊ったこと等の説明が付かない。

[過越の食事をする](14:12~21)

 過越はユダヤの重要な記念の宗教的祭りであった。それはかつてイスラエルが神の守りによって、無事エジプトを脱出できたことを思い起す儀式であり(神から使わされた死の使いは、目印に家の戸口に塗られた羊の血を見て、通り過ぎて行き、神の民を虐げるエジプトにだけ災いを及ぼした)、それゆえこの食事は、死から命に導き入れられたことを記念する、大へん重要な意味を含んでいた。

 さてイエスは弟子たちと、この食事をなされた時、彼を裏切る者がその中にいることを話された。しかしユダ自身もまた、イエスを裏切る行為であることに気が付いてはいないようであった。そうでなければ、ユダ自身が「先生、まさか私のことでは」(マタイ26:25)と問いはしなかったであろう。彼自身は、イエスのために善かれと思うことを予定していたに過ぎず、師をだまし殺すなどという意図は無かったものと考えられる。彼は恐らく、自分の師が、大祭司たちとよく話し合いの時を持てれば、誤解も解け、公に認知されると思い、その段取りをしたつもりなのであった。力を持つ者の機嫌を取ろう、或いは機嫌を損ねないようにしようとすると、このような悪魔の罠に陥る。運命的にユダが主を裏切ることになっていたというわけではない。ユダの心がまっすぐ救い主に向かっていたのならば、他の媒介を通して、主は十字架の刑に渡されていたであろう。