マルコ福音書13章24~14章2節

2013.4.10聖書を学ぴ祈る会           

[人の子が来る] (13:24~27)

キリストが再び来られる時の異象は、天体的規模である。想像を越えたことであるが、人間の罪による古い世界が過ぎ去って、新しい神の世界が出現するためには、そのような天体的異象が必要なのであろう。現在の世界が進展して、神の国になるのではない。どんなに科学や制度や施設が発展しても、人間の心が浄化されない限り、それだけでは神の国は現れないのである。神の直接的な介入が必要である。

[いちじくの木の教え](13:28~31)

 終わりの時がこのような規模で起こる以上、私たちにとって必要なことは、再臨の時の異常な出来事に対する対処の知識ではなく、信仰によって本当の備えをなすことである。天地は、全く新しく造りかえられる。異象と艱難は、そのことの前の出来事に過ぎない。信仰をもって生きることが、最も重要なことである。しかしまたその信仰とは、愛に根ざしたものでなくては、真実なものとは言えない。愛の欠落した内容で、信仰とは、はたして有り得るのだろうか。教会にはときどき、未来の子たちへの環境汚染の問題を全然気にせず、最後には神が天地を造り変えてくれるのだろうという、安易な考えが蔓延しているのではないかと感じることがあるが、断じてそうであってはならない。むしろそうした、愛の冷えた時代になると、神はもうこれまでかと判断され、世の継続を断念されるのではないだろうか。本来は、神はこの世で、人々が出来る限り長らえることを願われている。

[目を覚裏していなさい](13:32~37)

再臨の日がいつであるかは、人間には隠されてある。それは神のよしとされる時にまかせられている。予定として「この日」と決まっているのではない。であるから、人間の姿を取り現われたイエスも、その日を、何千何百何十年後の何月何日という形で、明らかにはされない。それは、時代の制限をもって地上に現われておられた限りにおいて、決定がされていない事柄だからである。その日がいつになるかは、多分に人間の行動いかんにかかっているとも考えるべきである。もはや人間がどうしようもない状況になった時、やがてそうなることは避けられないことではあるのだが、その時に神は、最後のまた完全なる救済策として、新しい天地の創造ということを考えておられる。神はいつの時代も、人間に忍耐をもって、悔い改めを待ち望んでおられる(Iテモテ2:4)からである。

[イエスを殺す計略](14:1~2)

 エルサレムでのイエスの活動を書き終わったマルコは、これからいよいよイエス最大の使命である受難、そしてそれに続く復活について語る。
 過越は、ユダヤの最も大きな祭りである。これは、イスラエル人がエジプトから脱出するとき、白分たちの家の門に小羊の血を塗り、エジプト人に害を与えるため使わされた天使が、それを目印に通過していったことを感謝して覚える、記念の祭りである。ユダヤの正月(ニサンの月)の14日に行なわれる。除酵祭は、彼らが脱出のとき、種入れぬパンをたずさえていたことと、春の農耕の祭りとが結ぴついたものである。しばしばこの二っの祭りは同一視された。
 ところで、宮を中心とする祭司長たちと、会堂を中心とする律法学者たちは、協力してイエスを殺そうと計った。そして、民衆に人気のあるイエスを、祭りの前か後、できれぱ早いうちに殺したいと考えた。しかしそれはバプテスマのヨハネが、「見よ、神の小羊」とイエスを指さしたことを、成就させてゆくこととなる。