マルコ福音書 12章28~44節

   2013.3.6 聖書を学び祈る会

[最も重要なおきて](12:28~12:34)

 律法学者はしばしばイエスの敵として現われてくるが、ときにはイエスに好意と尊敬を持った者があり(ルカ7:36、ヨハネ3:1、使徒5:5他)、ここに出てくる一人の律法学者も、敵意を持った者ではなかった。
 律法学者は、主にモーセ五書を中心として旧約聖書に記された律法を重んじ、それを日常生活に適用したために、全部で613の細則ができたほどであった。そして、あまりに律法の数が多くなると、その中で何が中心であり、何が最も大事であるかが分からないようになってしまった。そこでこの律法学者はイエスに対し、答を想定し言葉じりを捉えるための悪意からではなく、本当に真理を知りたくて、また確信を得たくて、この質問をしたのであっただろう。私たちもしばしば、多くを知っていても、中心の本質すなわち核心を見失ってしまい、中心ではない部分に捉われることがあるので、気をつけたい。

[ダビデの子についての問答](12:35~12:37)

 救い主がダビデの子孫から生まれてくるというのは、旧約の一致した預言であった。しかしキリストは、かつてダビデがそうであったような、地上的・政治的支配のために来られたのではなく、霊的解放・霊的支配のために来られたのであった。そしてそれは、前者を凌駕している。なぜならそれは、永遠に属することであり、また、まことの平和、幸せをもたらすものだからである。だからキリストは、もはやダビデの子という称号ですら、来られたことにより、彼を指す称号としてはふさわしくなくなった。

[律法学者を非難する](12:38~12:40)

 中身が伴わず、外側ばかりが厳かでもったいをつけている宗教は、神の厭われるところである。心が伴わず、形式だけや、あるいは立派な建物、また人に見せることを意識した態度は、まったく偽善であって、イエスはそのようなことを厳しく批判された。

[やもめの献金](12:41~12:44)

 形式主義の偽善を厳しく非難したイエスは、今度はここで、偽善とは反対の隠れた信仰のわざを誉めておられる。やもめが心をこめて、誠心誠意神にささげものをしたことを、イエスは目にとめておられた
 イエスが大切にされるのは、内面が伴っていることであって、決して量的大小ではない。それは奉仕の面でも、集団の数にしても同じである。神は、私たちが心をこめて礼拝し、また奉仕し、一生懸命仕えることを、喜びまた求めておられる。そして、その人がどれほど神を想い生きているかは、神のほかに誰も精確に知ることはできない。しかし、もし私たちが、自分が本当には一生懸命、神に仕えてはいないのを知っている時、私たちに真の喜びは与えられない。