マルコ福音書 12章 1~27節

 2013.2.27 聖書を学び祈る会
[「ぶどう園と農夫」のたとえ](12:1~12:12)
 この話のたとえは、ぶどう園の持ち主は神、ぶどう園はイスラエル、子はメシヤ(救い主)なるイエス、しもべは預言者、農夫はイスラエルの指導者というふうに解釈される。
 これはイスラエルの指導者たちに語られた言葉であるが、それは彼らの反感をよけいにあおる内容であった。しかしイエスは、真実を述べられる。
 イスラエルは、神からつかわされた預言者たちのみならず、神の愛子イエスまでも拒み、殺害する。しかし実はここに、メシヤの救いのわざが隠されていたのであった。神の思い、ご計画は、人知よりはるかに深く、神秘に満ちている。

[皇帝への税金](12:13~12:17)
 イスラエルの国は、長い間外国の支配下にあって苦しんでいた。イスラエル人の大きな望みの一つは、外国の支配から脱して、独立国となることであった。そしてその期待は、前からあったメシヤ思想とも結びつくこととなった。イスラエルの指導者たちがイエスにこの質問をしたのは、その理由による。つまり彼らは、もしイエスが人々の期待するメシヤであるならば、きっとローマに対し都合の悪い返答をするだろうと思ったからである。その言葉じりを捉えて訴えればよいと。このような悪知恵のためには、普段仲の悪かったパリサイ派とヘロデ派の両者ともが手を結ぶ。実に人間とは醜い存在である。
 しかしイエスは、これに対し、人が神に仕えることと、社会の責任を果たすこととは、何ら矛盾することではないこと、それぞれにおいて務めを果たすべきであることを、あっさりと、智恵をもって答えられた。税として納めるコインの肖像を用いて話されたのは、質問した側にとってみれば驚きであっただろう。

さて、私たちはこの話の関連として、ルターの「二王国論」についても少し考えておきたい。この教義をもって私たちが、もし社会のことには関知しないのだというような理解をしているならば、それはとんでもないことである。そうではなく、むしろ私たちは、神が支配される二つの領域において、どちらにも自分たちの責任を果たすべきであると覚えることが大事である。この教義は無条件でこの世の支配構造を肯定しているわけではないし、また聖書も「人に従うよりも、神に従うべきである」と記している通りである。

 私たちは、国家が神の意に反することをしない限り、これを神が与えた秩序として尊び、従わなければならない。しかしもし、国家が、神の意に反することをする時、私たちは不服従をもって神に従う義務を持つ。そして実は、国家がそこまでなる前に、私たちも一人一人、ただ受け身になるのでなく、積極的にこれに参与していくことが大切であることを、知っておくべきである。宗教を持つ者が、かえってこれから遠ざかるようでは、宗教そのものが弊害でしかあり得なくなる。私たちは、どちらの領域に対しても責任を持ち、決して片側を放棄してよいのではないことを、強く覚えるべきである。
 さらにまた私たちは、教会という組織ですらも、必ずしもいつも神の意思に従っているものではないことを、過去の歴史から学び、この反省を軽んじてはならない。神が私たち一人一人の内に住まわせてくださった聖霊の声に、静かに一人一人が聴き従うことによってのみ、私たちは神と共に歩んでいくことができるのである。

[復活についての問答](12:18~12:27)
 サドカイ派(祭司階級)の人たちは、復活ということを信じていなかった。彼らはそして、イエスを陥れようとしてやってきた。
 イエスはしかし、神を信じ神と深い交わりを持つ者は、神の前に生き、永遠の命を持つ、またそれはこの世の生活の延長ではなく、新しい世界に生きるのだと答えられた。サドカイ派の人たちはしかしこの後も、考えが変わらなかったことが、使徒言行録のパウロとの問答の中からもうかがえる。主イエスが自ら語られても、聴く気のない者は変わらないのである。私たちも、ふんぞり返って神の言葉を聞いたりしないよう、気をつけたい。サドカイ派の人たちも、そうしているつもりはなかったのに、そうしていたのであるから。