マルコ福音書 11章1~33節 

       2013.2.20 聖書を学び祈る会  
[エルサレムに迎えられる](11:1~11)
 いよいよイエスは十字架にかかるため、エルサレムに入ってきて、これからの記述は本福音書の頂点となってゆく。

 イエスはエルサレムに入るに際し、「ろば」に乗られた。これは、ゼカリヤ9章9節の預言の成就となった。イエスは、軍馬に乗った猛々しい王としてではなく、柔和な平和の王としてやってきた。
 群衆はしかしイエスを、地上の政治的英雄の王として迎えようとした。彼らは、自国がローマから独立し再建するための指導者として、イエスを歓迎した。しかしイエスのわざは、人々を滅びに至らせる悪魔との対決であり、罪ある人々の身代わりとなりこれを清算し、人々に罪の赦しを与え、人々が神の前に永遠に生きるようにすることであった。神さまが大切に思われる優先順位・価値観と、人々が願い求めることとは、必ずしも同じではない。自分の外に目が開かれていくとき、私たちは神の意志に沿っていくことだろう。

[いちじくの木を呪う](11:12~14)

 これは奇妙な奇跡である。人を助けるためでもなく、またいちじくの季節でもなかったのに、木を呪われたというのは、イエスの他の言動からして理解がしにくい。それゆえこれは、象徴的な意味があるのではと、解釈されてきた。葉だけを茂らせて実を持たない木に、イエスは、外観のみを誇る形式主義をたとえられて、警告として非難なさったのであると考えられる。

[神殿から商人を追い出す](11:15~19)

 神殿の外庭には、神殿礼拝のために必要なものが売られていた。これは公認されたことであった。しかしイエスは、これをひっくり返し、商売人を追い出された。イエスが暴力を振るわれたとは驚くかもしれないが、人に危害を加えたわけではない。イエスは、人々の信仰心が利用されて金儲けがなされる事を、極度に嫌われたのである。人々の信仰心を巧みに利用して、別な目的のために事がなされること、これも神の厭われることである。

[枯れたいちじくの木の教訓](11:20~26)

 信仰が人間の勝手な信心ではなく、神に基づくものであるとき、祈りは既に神にかなえられたと確信してよい。そうするとき、私たちはまた、神にすべてを委ねることができ、そして、いちばん大切なことは、その信頼できる平安そのものであり、結果がどうなるかではないことを私たちは知るのである。

[権威についての問答](11:27~33)

 「権威」は「権力」とは違う。権威は、この世で力を持つ者が、必ずしも持っているものではない。また多くの場合、その者たちは権威を持っていないことを私たちは知っている。聖書で言う「権威」とは、語源的にも「(神から来る)よいことの本質から出たもの」(「エクスーシア」:エクス・ウーシア)である。したがって、物事の背後に、本質的に畏敬できる内容が見えないとき、またよいことの本質がその内容によって説明できないようなとき、それは「権威」があるとは言えない。私たちは「権威」には従い、そして「権力」(「デュナミス」)が不当なことを命じるときには従うべきではなく、むしろ不服従の義務がある。