2013.1.23 聖書を学び祈る会
[金持ちの男](10:17~31)
イエスのもとに来て、永遠の命を得る道を知ろうとしたこの者は、青年であった(マタイ19章)。彼はしかしイエスを、神の子とは思っていなかった。そこでイエスは彼に、彼がイエスに呼びかけた「善い者」というのは神だけであると言って、青年の目を神に向けさせようとされた。そして、神が人間に為すよう与えられた御教えは、十戒の中に十分示されてあると話された。
青年は真面目な人であり、十戒の教えは守ってきたと言った。しかし、彼は自分が神の戒めの前に足らない者であることを、気付きもしていなかった。そこでイエスは彼に、彼がそのことに気付き、砕かれて、そこからもう一度、神を見上げていくことができるように、たいへん厳しいことを言われた。また、イエスの言葉は裕福で実直な青年にとって、彼に無いものの大きな一つである、神に信頼するという心を見出させるために、最も核心をついた言葉でもあった。青年は悲しみながら去っていった。しかし彼の救いは、ここから始まるのである。
[イエス、三度目の死と復活を予告する](10:32~34)
これは第一回受難予告(8:31)、第二回受難予告(9:31)に続いて、三回目の受難予告である。そして、いよいよエルサレムに向けてその予告は詳細となり、イエスは決然として歩んでいかれた。32節の、「イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」とあるが、ただ先頭を歩くからといって、ついていっている者たちが、驚いたり恐れたりするということはおよそ有り得ないことである。このことは当然、イエスの表情が、非常に厳しいものであったことを想像させる。それはいよいよ、十字架の死を覚悟なさっての歩みであったからである。しかし弟子たちには、その主の苦悩を知る者はなかった。それは次に続く、弟子たちのイエスへの要望の言葉からも分かる。このように、真に十字架を負う者とは孤独なものである。楽しく仲間が大勢いて、また楽をして負える重荷は、単なる奉仕であって、十字架ではない。
[ヤコブとヨハネの願い](10:35~45)
弟子たちは地上の誉れを求めたが、イエスは彼らが、真に求めるべきものを知らないのだと言われた。イエスが飲む杯、イエスが受ける洗礼とは、死の苦難のことである。そして、従ってくる者には何らかの苦難を受けねばならぬこと、また真に神からの栄誉を受けたいと思う者には、上に立つことではなく仕えることを学ぶべきであることを、イエスは語られた。仕えるとはまた、人にではなく神の愛、神の意志に従うことである。
[盲人バルティマイをいやす](10:46~52)
熱心なバルティマイの願いに応えて、イエスは彼をそばに呼ばれた。彼は踊り上がって来た。救ってもらえるという信仰の喜びであった。真に信じる者には、約束の成就の前に既に喜びがある。