マルコ福音書9章30~10章16節

2013. 1. 16 聖書を学び祈る会 
  

[再び自分の死と復活を予告する] (9:30~32)
 イエスの受難の時が近づいていた。弟子たちにこのことをはっきりと教えておくため、イエスは群衆を避け、弟子たちとだけの時間を過ごそうとされた。しかし、弟子たちは、イエスからの二度目である受難予告にもかかわらず、イエスの言われたことを理解できなかった。

[いちぱん偉い者] (9:33~37)
 当時律法学者は民衆の指導者であり、その中でも民事の裁判権を持つ七十人議会(サンヘドリン)の議員にもなる者がいて、よい師につくことはこういった出世への可能性を含んでいた。イエスの弟子たちもそのような、この世的な成功を夢見ていた。またそれゆえ、イエスの受難を理解することができなかった。イエスはこれに対し、弟子たちが偉くなりたいと思うことそれ自体は否定なさらなかった。しかし、そのためには、この世的教えとは全く違い、自らをささげ、仕える者となることが必要であると教えられた。

[逆らわない者は味方] (9:38~41)
 積極的にイエスを信じ、主と告白することは大切で望ましいことである。しかし、同時にイエスは、人知を超えた愛をもって、救われる者の範囲を広くしておられる。積極的にイエスを否定するのでない者には、ゆるしと救いの余地が十分残されている。

[罪への誘惑] (9:42~50)、
 たいへん厳しい教えであるが、ここでの中心点は、それだけ真剣に救いを求めよということであろう。滅びの恐ろしさと、救いへの招きが述べられている。また、救われたキリスト者も、その後の生活が塩で味つけられたよいものであるよう求められている。

[離縁について教える] (10:!~12)
 離縁の問題については、律法学者にも解釈の相違があって、そのためにイエスを陥れようとするパリサイ派たちは、この間いをもってイエスを罠にかけようとした。イエスは、律法の根本精神にまでさかのぼって、神の教えと、人間の身勝手さを説明された。モーセの教えは、離婚の正当性を説くものではなく、人権擁護の精神から出ているものである。婚姻は、この世でだけのことであるので、望まれないことではあるが、破れが生じることも時として致し方ない。しかし、そのやむを得ない場合であっても.、弱い立場にある者が窮する事態は避けられなければならない。

[子供を祝福する] (10:13~16)
 この部分の聖書解釈、また訳し方は二通りある。すなわち一つ目の、大半の教会指導者たちによる伝統的解釈は、「子どもが受け入れるように、神の国を受ける者でなければ、そこに入れない」という解釈。これは文中の「子ども」を主格で捉えた解釈である。しかし近年、別の解釈の可能性が指摘されるようになった。それは「子ども」を対格(目的格)で捉えた解釈である。どちらも文法的には可能であり、むしろ「子ども」が出てくる他の箇所の文脈とも合わせて考えると、後者のほうが自然な訳ではないかと考えられる。その解釈では、「子どもを受け入れるように、神の国を受ける者でなければ、そこに入れない」という解釈となる。文法的にはどちらも可能であるのに、前者だけが選ばれてきたのは、教会の組織維持のためにはそのほうが都合よかったからではないかと私(内藤)は思う。しかし解釈は二通りあり(荒井献氏)、私も荒井氏と共に後者の解釈に立つ。