マルコ福音書 6章14~56節

    2012.10.24 聖書を学び祈る会
[洗礼者ヨハネ、殺される](6:14~29)

 バプテスマのヨハネは投獄されていたが、ついにヘロデの妻ヘロディアの陰謀によって処刑されるに至る。ヘロデはヘロディアと不倫の結果結婚したのであるが、これを批判したヨハネをヘロディアは憎んでいたのである。またヘロディアには、神に対する恐れは(畏れも)なかった。このように人間社会では、神の前に正しい者でも、悪意のある者によって害されるということは、起こることである。だからこそ、今の世でもキリスト者には、悪のくびきを折るという働きが神から期待されている。

 さて、イエスの活動のことが有名となり、ヘロデの耳にまで達すると、ヘロデはイエスを、ヨハネのよみがえりだと思った。このような考え方は民間にはよくあるが、聖書の教義は輪廻転生とは合っていない(ヘブライ9:27)。ただ例外もあり、バプテスマのヨハネに関しては、エリヤの再来(マルコ9:13)だとされている。

[五千人に食べ物を与える](6:30~44)

 まずはじめに、イエスに遣わされた弟子たちが、働きを終えて帰ってきて、イエスから休息を取るようにと言われたことが記されている。この世での働きにおいて、神との静かな交わりの時を持つことは、たいへん大切で、また必要なことである。

 さて、イエスと弟子たちが舟で出かけた先の場所に、群衆は行って、待ちかまえていた。腹をすかせてついて来たこの群衆を憐れまれて起こった奇跡が、有名な五千人(成人男性だけでも)の養いである。この出来事で大切なことは、イエスが弟子たちを媒介としてわざをなされたということと、また人々の間にあるものが貴く神にささげられて、起こった出来事であるということである。すなわち、神は病めるこの世に対して、私たちが、知恵をしぼり、また持てるものを心からささげて、具体的に行動を起こすことを求めておられる、ということである。

 イエスのまなざしは、今も私たちの社会に注がれている。イエスは「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐み」とあるが、この「深く憐み」と訳された語は、「はらわた痛む」という意味の語である。神が痛み、イエスが痛まれている社会の苦悩に、私たちも目をそむけず共に痛みを覚えるというところから、神のわざは私たちのうちで始められていくのではないだろうか。

[湖の上を歩く](6:45~52)

 イエスもまた人々から離れ、霊肉ともに休息を取ることを必要とされた。神と一体であるイエス様でさえ、この時を持たれたのである。なおのこと私たちは、礼拝の時を大切にし、たとえ共同の会に集えなくても、一週に一度全霊を込めて、神と向かい合う時を持つべきであろう。すべての人間は、この静と動の両方の時が必要である。

 イエスが湖上を歩かれたのは、この祈りの時を持つために弟子たちを先に舟に乗せて行かせたためで、そのあと嵐に遭遇した彼らのもとへ、早く共におられようとして、このように歩いて来られたのである。

[ゲネサレトで病人をいやす](6:53~56)

 イエスは弟子たちを北方のベトサイダに向かわせたが、強風のためか実際に着いた所は西方のゲネサレトであった。私たちも伝道において、「必ずこうなる」と事態を完全に予測、また予定することはできない。唯一確実なのは、ただイエスがどんな時にも共におられるということだけである。しかし、それで十分である。