2012.10.10 聖書を学び祈る会
[「ともし火」と「秤」のたとえ](4:21~25)
神の国の奥義は、信仰によって私たちに啓示される。それは私たちの「聞く」態度にかかっている。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられる」とあるのは、人間の神に対する態度、そしてまた人間の互いに対する態度によって、つまりその人の信仰の態度に応じて、神の国がその人のうちでいかに成長するかということがかかっているということを表わす。
[「成長する種」のたとえ](4:26~29)
神の国を、地上の理想社会の発展ということと照らし合せて考えるのは、正しくない。これは、時代とともに教会また信徒の数が増え、やがては一杯になるという量的なことを扱っているのではない。このたとえの中心は、神が人の心の中に起こしてくれる神秘、またその神の計画の偉大さにある。
[「からし種」のたとえ](4:30~32)
からし種は非常に小さな粒であるが、成長すると、ユダヤでは3~4mにも達すると言われる。信仰によって成長させられる、神の国の情熱の大きさを表わしている。
[たとえを用いて語る](4:33~34)
イエスは、弟子以外の一般群衆に対しては、たとえで神の国を話された。それは、たとえが、分かりやすくする手段であるとともに、信仰のない者には、神の国の奥義を隠す手段でもあったからである。信じない者にまであまりに解釈をほどこして説明をすることは、かえって益にならない時があるであろう。また、人は一度に全てを理解することもできない。「聞く力に応じて」とあるように、私たちが神の真理を理解するのにも、時間(かかる長さ)や時機(タイミング)というものがある。そして、もしかしたら、いや多分そうなのだろうが、イエスが人々に直接に語られた時代、その時代そのものにも、文化・言語・社会構造・学術知識・神理解・その他諸々の限界があり、それゆえに完全には語り尽くせなかったことや、またその時代限りの内容であってもそれを用いてしか語れなかったことも、当然あったと受け止めてよい。またそうでなければ、聖書は、場合によっては、人を傷つける危険な書ともなり得ることを(差別表現や、癒しなどにおける信仰理解、等々)、私たちは覚えておくべきであろう。
[突風を静める](4:35~41)
しばらくすれば闇につつまれる夕方になって、舟を出そうとすることは感心しないが、そのように、神の計画は、人には理解し切れない時がある。しかし、私たちは、どんな時にも、ただ主を信じて歩んでいくかどうか、だけである。また困難の時にも、主が共におられることだけは、忘れてはならない。
[悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす](5:1~20)
イエスはこの者と会うために、舟を急がれたのだろうか。彼のいたデカポリス地方は、ギリシャ人の住む異教の地であったが、このことにより、彼の口を通して福音がこの地域にも伝えられることとなった。「レギオン」は兵士の大勢いたローマの軍隊名。豚の大群が死んだという地域の犠牲は、甚大であったろうが、イエスは人間を救われることを優先なさった。当初、文句こそ出ても、これを歓迎する者はいなかったが、次にイエスがこの地方を訪れたときには、人々はイエスのもとに、耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その人の上に手を置き癒してほしいと願うようになる(7:31~37)。人々が、多くの豚(財)より、人間の命・魂の方がはるかに尊く、かけがえのない存在であることを、知ったからである。