マルコによる福音書 3章20節~4章20節

                                                      2012.10.3 聖書を学び祈る会
[ベルゼブル論争](3:20~30)

 ユダヤ教の本部エルサレムから、律法学者たちが、イエスを批判するためにやってきた。彼らは悪意をもって、イエスのわざは悪霊のかしらベルゼブルによるものだと言った。しかしイエスは、サタンはそのような内輪もめをしない、とこの批判を退けられた。またそのような、神の働きを見てもそれを冒涜するような者に対しては、厳しい裁きがあることを警告された。「聖霊をけがす者」というのは、人間の心に近づいてこられる神に対して、それを神の諭しの声とは認めず、またそれと気づいても、茶化して済ませようとする者のことである。そのような者は「ゆるされない」というか、既に裁きの中にいるままである。

[イエスの母、兄弟](3:31~35)

 罪ある者(と当時レッテルを貼られていた人)や病人たちは、素直にイエスに助けを求めにきたが、家族の者はあまりにイエスの近くにいて、かえって理解することができなかった。イエスが「神の御心を行なう人」と言われたのは、心を低くし救いを求め、神が差し出した救いを素直に受け取る者のことである(ヨハネ6:29)。

[「種を蒔く人」のたとえ](4:1~9)

 イエスは民衆に対して、生活の身近なところから、わかりやすい譬えを用いて話をされることが多かった。ただしイエスの語られる譬えは、普通に言う例話とは違って、神の奥義に関することを、地上のことで説明する方法であった。それゆえ、だいたいにおいて譬えは、一つないし二つの中心点を持っていて、それが重要であり、他の詳細な部分はあまり意味を持っていない場合が多い。イエスの譬えは、その中心的な強調点をつかむことが大切である。

[たとえを用いて話す理由](4:10~12)

 イエスは、イエスに従う者たちには、神の国の譬えをさとる知恵が与えられることを話された。しかしイエスを主と信じない者、真剣に求めない者は、たとえイエスの所にやってきても、ただ利益や自分の関心事のためだけであるなら、その人たちには、神の国の奥義は授けられない。私たちは、御言葉に対して、真剣かつ謙虚な姿勢で、これを聞くことが必要である。

[「種を蒔く人」のたとえの説明](4:13~20)

 「種」は神のみことば。これを、どのような心構えで聞くかが問題となっている。真剣に神の御言葉を聞く者には、神の国が彼の中で成長してゆく。その者は御言葉によって強められ、知らず知らずのうちに、多くの実を結んでゆく。

 この箇所は、ルカも参考にすると、なお一層理解ができるであろう。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることがないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」(ルカ8:12)とある。つまりそれは、他の部類の種は、ともかくも信じて救われたことを意味する。すなわち、「良い地」に落ち多くの実を結んだ種だけではなく、「石だらけの所」や「茨の中」に落ちた種も、とりあえずは救われた者であることを示している。私たちは、神からの栄冠を求めて生きるべきである。信仰をしっかりと保つ者は、必ずそれを受け取る。しかし、信仰が途中で挫折したり、いい加減な歩みしかできなかった者にも、神は救いを用意くださっていると、受け止めてよいではないだろうか。

 Ⅰコリント3:10~15、ガラテヤ6:7~9、ローマ4:4および11:29、ヨハネ10:28、ヘブライ10:35、その他多くの箇所が、救いは恵みであり揺るがないことと、またそれにプラスして、信仰を貫く者は神から報いを受けることとの、両方を記していることを読み取ることができるであろう。これはルーテル教会にとって馴染みがなくとも、時代と共に、聖書の解釈は、旧来の一つの教派の解釈を越えていく可能性を秘めている、と覚えることが必要であろう。