マルコによる福音書1章1~20節

    
                                                       2012.9.5聖書を学び祈る会  
今月よりマルコによる福音書の通読を始める。一般に、’マタイ、マルコ、ルカによる三つの福音書は、共観福音書と呼ぱれる。それは、その書き方、構想において、一致する部分がかなり多いからである。そして三書を比較してみると、マルコに最も共通の資料が多く、またその描写の仕方が、マルコが最も素朴である。そういったことから、マルコ福音書が三書の中では最も古く、マタイ、ルカの福音書成立にあって、かなりの影響を与えたものと考えられている。マルコ福音書を読み進めることはしたがって、最も基本的で重要なメッセージを、今ひとたび聴くことになるだろう。

〔神の子の宣教の開始〕

[1:1]

「神の子」・・・・イエスに関する称号の中で最も重要なものである。マルコには、この語は6回しか用いられていないが、1:11の受洗の時、9:7の変容の時、15:39の百卒長の告白の時と、大切なところに入れられている。

[1:4]

「悔い改め」・・・・単に罪を悔いることではなく、人閥中心から神の意志に従うべく、立ち返るということである。

「洗礼」・・・・ユダヤ教自体にもこの儀式はあったが、それは倫理的な決意や、また異邦人がユダヤ教に改宗する時に行なわれるものであった。洗礼者ヨハネはそれを、終末の切迫した神のさばきのための準備として行なった。しかしそれらはいずれも、完全に人の罪をあがない、救いをもたらすものではなかった。人間の決意、気構えは、永続するものではなく、また不安定である。罪を赦し、救いに入らせるのは、ただ神の憐れみによるのであり、私たちはその恵みのしるしとして、父、子、み霊による、神の側の約束による洗礼を受ける。

〔1:8〕

ルターは小教理問答の中で洗礼について、「みことぱなしには、水は単なる水である。

・・・しかし神のみことぱとともにあるとき・・・・それは恵み深いいのちの水であって、聖霊による新しい生まれかわりの洗いなのである。」と言っている。

[1:9]

イエスが洗礼を受けられたのは、ご自身のためではなかった。罪なき方が、罪ある私たちの重荷を、ひき受けてくださるためであった。

[1:12]

み霊がイエスを、試みに会わせるために、荒れ野に送り出したことも鷺きである。「神の心にかなう」(9節)者が、試繍に会う。私たちの会う試練も、きっと誰かのために神によって用いられている。

[1:17,18]

 イエスの弟子とされることは、ただイエスの側からの招きによる(ヨハネ福音書15:16)。彼らがその言葉にすぐ従って行ったことは、無謀であるように感じるかもしれないが、マルコはいたって簡明に記事を書いているだけで、その事前の。心備えとなる出会いの出来事を、ルカやヨハネは記している。その上での決断であった。