2014.6.25 聖書を学び祈る会
長い期間をかけて読んできた創世記の最後の章である。ヤコブの埋葬と、ヨセフの死がふれられている。
また、この物語の大きなテーマである「神の導き」ということについて、20節のヨセフの言葉がこれを集約している(45章5~8節以来、再び)。
[神の導き]
20節の言葉は、私たちに大きな深い慰めを与える。人がなす悪も、神はそれを、時間をかけて善に変えてくださる。神の導きは、何とありがたいことか。私たちは、自分たちの過ちを神の前に懺悔し、赦されて生き、そして先のことも神に委ねて生きることができる。神がそのほころびを、繕ってくださるのである。
[葬り]
ヤコブは、息子たちによって故郷に埋葬されることができた。しかしヨセフは出エジプトの時になって、その遺体がエジプトからカナンに運ばれることになる(出エジプト13章19節、ヨシュア24章32節)。この間およそ350年の歳月を、イスラエルの民はエジプトで過ごすことになる(出エジプト12章40節には430年と書かれてあるが、実際には約350年だったと検証されている)。
このようにして、創世記は出エジプト記につながる、新しい物語への始まりでもある。
ここに登場してきた信仰の人たちは、神の御言葉を信じ、約束を目指して歩んだ、私たちの先人であった。ヘブライ11章13~16節はこのことを記している。
ヨセフは、カナンを与えると言われた神は必ず、時至れば自分たちをエジプトから引き出してくださるであろうことを信じた。
エジプトは彼らにとって過ごしやすい所であったが、彼らは、しばしそこで寄留する、旅人としての信仰を言い表わし、またそのように生きた。
神の召し出される時が来たらきっぱりと、この地を去って旅立つことを、しっかり心に留めつつ歩んだのである。
この生き方の根底には、彼らが、過ぎ行くものにではなく、神がくださる安息こそ最もよいふるさとであると、待ち望んでいた信仰の姿勢がうかがえる。
私たちもまた、見える、過ぎ行くものにではなく、もっと良い、天にあるふるさとに目を注ぎつつ、この世を歩むのである。
(以下は補足)
[15節] ヨセフの兄たちは、ヨセフが彼らに報復しないのは、父が生きていたからではなかったかと思った。
ヨセフはもうとっくに、兄たちを完全に赦していたのであるが、彼らは自分たちがなした罪のあまりにも大きいのを思って、そのように心配したのであった。
人はこのように、なかなか赦しというものに、身を委ねきることが難しい。天国への約束も、どれほどのキリスト者がその救いを確信し、揺らぐことのないものだと安心することができているだろうか。赦された喜びと、約束への信頼、またそのことへの感謝がなければ、伝道は進まないであろう。基本的なことである。
[年代] 聖書考古学者たちの研究によると、ヨセフおよびヤコブ一族がエジプトに移住した時代は、おおよそ紀元前1700年頃と推定され、いわゆるヒクソス王朝(第15~17王朝)の時代だと言われている。ヒクソスというのは「外国の支配者」という意味だと言われ、セム系の民族で、ヘブル人とは割合に近しい民族だったようである。
そういった時代に、他国人ヨセフがエジプトの宰相になったことは、歴史的にみても十分可能性のあるところであり、無理のない話である。
次回:7月2日,9日,16日(水)で「主の祈り」を学んだ後、8月末まで夏休み。