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声明:核から解放された世界へ

2014年 7月 2‐8日 世界教会協議会(WCC)中央委員会にて採択(D.マッキントッシュ/川上直哉 共訳)
声明:核から解放された世界へ
核(原子力)の爆発と事故、そしてその脅威が大惨事を引き起こしている場所で、「世界教会協議会(WCC) 第十回 釜山総会」は開催されました。北東アジアこそ、戦争のために核兵器(原水爆)が使用された地球上唯一の場所です。冷戦時代に千回以上の核実験が行われたのも、北東アジアと隣接している太平洋とアジアでした。そして今日、この地域の全ての国家が、核を保有しているか、米国が備蓄する核兵器(原水爆)を頼りにしています。東アジアには 100 余の核発電所(原子力発電所)があり、さらに多くの核発電所(原子力発電所)
立地計画があります。それは経済力を示すものであると同時に、「フクシマの悲劇」を思い出させるものでもあります。そして(この度総会が開催された)韓国は、世界で最も核発電所(原子力発電所)が密集している国です。
核発電所(原子力発電所)の傍で生き、そして、敵国の核兵器(対立する核勢力)敵国の核兵器(原水爆)の射程範囲内に生きる。そうしたなかで、北東アジアの良心と勇気ある人々は、自分たちの社会が歩んでいる軍事的・経済的な道のりを見詰め、深刻な疑問の声をあげています。
核兵器(原水爆)は、本当の平和と、決して一致しません。爆風・熱線・放射能といった言語を絶する苦しみを、核兵器(原水爆)はもたらします。時間や空間をやすやすと超えて広がる破壊を、核兵器(原水爆)はもたらすのです。核兵器(原水爆)の破壊力は見境がなく、その影響力は比類ないものです。核兵器(原水爆)は、それが存在する限り、人間への脅威を突きつけるものとなります。
市街地こそ、核兵器(原水爆)の主な標的となります。ヒロシマ級の小さな核爆弾百個で都市を攻撃すれば、二千万ほどの人びとが死に絶え、また時間を経てその二倍から三倍の負傷者を出すことになります。更に、核兵器(原水爆)によって灰燼に帰した市街地から立昇る煤は、上層大気に広がり、地球規模で気候を乱してしまいます。そしてその後十年程度の間、気温は低くなり、植物が成長する夏の季節が短くなるので、二億人が飢餓のリスクに曝されることになりますii。
こうしたデータに向き合う中で、2013 年、124 の政府が次のように宣言しました。「核兵器(原水爆)はどんな状況下にあったとしても、二度と使用されてはならない。このことは、まさに人間の生き残りをかけた禁止事項であるiii。」しかしながら、核兵器(原水爆)を使用する用意があると明確に誇示することが、核戦略というものの常でした。また核を巡っては事故や計算違いが相次ぎ、その歴史は、大惨事寸前に至る出来事の繰り返しだったのです
iv。その上さらに、世界中のどの国であっても、たった一つの核爆発によって、救急医療が壊滅状態に至ると言われていますv。結局、核兵器(原水爆)が二度と使われないようにするには、核兵器(原水爆)そのものを撤去するほかに道はないのです。
また他方、核(原子力)エネルギー技術の開発は、独特の危険をはらんでいます。2011年の福島第一原子力発電所災害は、人々、共同生活、そして生態系にもたらす危機の何たるかを、再び示しました。数万に及ぶ人々が避難を余儀なくされ、二度と帰れなくなってしまったのです。この人々の農場、農村、そして市街地は「もぬけの殻」となり、汚染されてしまいました。公衆衛生と環境へのインパクトがどれほどのものとなったのかは、これからも永遠に判明しないことでしょう。実に、完全な除染は、不可能なのです。
福島第一原子力発電所事故の犠牲者は、「ヒバクシャ」と呼ばれるようになりました。
「ヒバクシャ」という言葉は、苦しみ、社会的な烙印(スティグマ)、そして不条理な運命を含意しています。この言葉は、原子力爆弾が日本に投下された際、その犠牲者となった人々を指すものとして、最初用いられた言葉でした。
この原爆投下から数えて、2015 年は 70 年目となります。1945 年のヒバクシャは、こんな苦しい運命がこれ以上誰にも及ばないでほしいという希望を込めて、証言を続けています。
そして今、そこに、2011 年の被曝者が上げる核(原子力)エネルギーへの非難の声が加わりました。この声に耳を傾け、その証言を自らのものとすること。それこそは、キリスト者と教会の道理というべきものです。
健康と人道と環境についての懸念軍事的であれ、民生利用であれ、核(原子力)の技術は、自然界に存在しない有毒の元素
を大量に産み出し、そして同時に、世界で最悪の環境汚染を引き起こすものです。その副産物の幾つかは、数百万年にわたり生き物の脅威となりますvi。核廃棄物のはらむ危険性が存続するほどの長期にわたり、それらを自然環境から隔離できるような貯蔵方法も、廃棄方法も、今のところまだ見つかっていません。vii。
私たちは、核の力(原子力)によって経済力を補充しようとし、核兵器(原水爆)によって自衛しようとすることによって、地球を汚染しています。そうして私たちは、自分自身と、子孫と、そして他の生き物への危機を昂じさせているのです。
放射能は、見えず、臭わず、味のない毒です。その健康への影響は甚大で、幾世代にも及びます。核発電所(原子力発電所)はアイソトープと呼ばれる特別な元素を排出します。放射線物理学的・化学的に言って、それは人体にとって有毒なものなのです。それは、私たちが吸う空気と、飲む水と、食べる食べ物を汚染するかもしれません。
電離放射線がもたらす影響は、いち早く心理的・社会的なトラウマとして現れます。それは家族と共同体を破壊します。その後、様々な種類の癌のリスクが高まり、いつしか顕在化し、そしていつまでも続く遺伝的損傷が次第にはっきりとしてきます。
核産業(原子力産業)について「安全」という言葉を使うことはできない。このことは、もう証明されたことです。おおよそありえそうにないと判断されたような酷い事故が、繰り返し起こったのですviii。このような事故による深刻な結果は、関与する政府及び企業によって日常的に無視され、あるいは(大したことではないとの口調で)片付けられてきました。
核(原子力)の事故や核(原水爆)実験が行われるたびに発生する放射線による被曝、そして放射性物質による化学的毒素には、「許容可能」なレベルがある――そのように想定して設定される基準が誤解を招き、人々を危険に曝してしまいます。このことは、もう明らかとなりました。チェルノブイリでも、フクシマでも、そしてほかの事故の場合にも、事故後に「許容可能」な基準値を引き上げることによって出来事の深刻さを最小化して見せようとしてきたのですが、その目的は、ただ世間の批判をかわすことにのみ置かれていました。
こうした政策は、核(原水爆)実験場の周辺で、いつも使われてきました。実験のために他所からやって来た人々が、実験場の周辺に住む人に、いつも同じことを言いました――
「放射性物質は降り注ぐけれども、一切の心配はいらない」と。核実験が行われるというのに、危険度の高い地域から退避するように、との注意さえも受けなかったことも、しばしばでした。軍は放射線の影響を調査するために医師を派遣し、犠牲者の診断はさせても、治療することは許さなかった――そんな事例がたくさん記録されています。実に今日に至るまで、核(原水爆)実験場の周辺では、人々の住む地域に残された核物質の悪影響が続いているのですix。
この数十年の間に、化学・生物学兵器などの大量破壊兵器や、レーザー兵器、地雷、そしてクラスター爆弾に対する「人道的なノルマ」とでもいうべきものが、新たに築き上げられてきました。シリアの化学兵器は廃棄されることとなりましたが、その決定に至る過程には、核保有国による主導的役割が見られたのです。私たちはこの事例を、今、参照するべきです。
そして、この事例を、将来に向けた先例としなければなりません。
同じように世界最強の兵器[核兵器]を人道的な見地から廃棄することは、なかなか難しいでしょう。核兵器(原水爆)で武装している国々は、圧倒的多数の意見に対して、これ見よがしに逆らっているのです。それはまるで、「核兵器(原水爆)の重要性はいまも変わらない」と強弁しているかのようです。それらの国々は、自らが備蓄している核兵器(原水爆)が、今後数十年以上続けて使用可能なものとなるよう、再整備をしています。そしてまた、核不拡散条約の束縛を最小化して、核兵器(原水爆)廃絶に向けた効果的な方策を無効化しようとしているのです。しかしながら、核廃絶を支持する新しい動きが、核(原子力)を巡る議論の様子に、変化をもたらしています。政府、国際機関、市民団体、宗教者のネットワークが、健康と人道と環境に対してもたらす影響に基づいて、核兵器(原水爆)の非合法性を訴え始めました。こうして、核兵器(原水爆)に認められてきた正当性と特権が、次第に切り崩されているのです。
核(原子力)についての教会的判断
世界教会協議会は、「正義[justice]」「参与[participation]]」「持続可能性[sustainability]」といったことを考えて、核(原子力)についての取り組みを進めてきました。その取り組みの中でWCCは、倫理的省察とアドボカシー(公的に声を上げること)の重要性を強調してきました。1948年に行われた第一回世界教会協議会総会は、「原子力爆弾」および他の近代兵器に
よる戦争について、それは「神に対する罪であり、人類の品位を落とすものである」と表明しました。その時以来ずっと、教会はその政策の中で、核の脅威に言及してきました。
1975 年の第五回総会において世界教会協議会は、核発電(原子力発電)と核兵器(原水爆)が、核廃棄物による有害物質と核(原子力)テクノロジーの拡散をもたらすという点において、「倫理的ジレンマ」に陥るとの警告を発しましたx。1979 年に開かれた「信仰・科学そして未来についての世界会議」では、長期的な視野に立った時、原子力は、二酸化炭素排出量の削減において意義ある役割を担うことはできないと警告し、核発電所(原子力発電所)の建築を一時停止するよう求め、再生可能エネルギーへ大きく軸足を移すよう訴えましたxi。
1983 年の第六回総会において、世界教会協議会は、「核兵器(原水爆)については、その使用と同様、その保有もまた、人道に対する罪と看做し、これを違法とする国際法の枠組みを作るように」と呼びかけました。そしてその三年後、チェルノブイリの災害が起ったその時、諸教会が抱いた懸念は、現下の福島第一原発による危機にも当てはまります。今、諸教会が抱く懸念は、以下の三点に整理して示すことができます。
・ 核関連労働者(原発労働者)の身の安全について。
・ 確かな根拠を持つリスクについて、いつも当局が沈黙してしまうということについて。
・ 自らの損害を巡る、市民の「知る権利」が否定されることについて。
1989 年、世界教会協議会は「核(原子力)エネルギーについての審議会」を開催しました。
この審議会は、以下のように確認したのです。「人間の活動は、しばしば被造世界を侵犯している。今日、まさに生き残りに関わる事柄が危うくされている。」またこの審議会は、エ
ネルギー技術に関する倫理三原則を、以下のように纏めて提示しました。
(a)将来世代のために「被造世界の持続可能性」を促進しなければならない。
(b)「正義とは、人間が命をつなぎ、その人生を全うできるようにすること」と定義する。(c)人々は、自分たちの生活に直接影響するようなエネルギーについて、その選択の過程に参加できるようにしなければならない。xii
これらは現下の核(原子力)エネルギーを評価する上でも有効なものとなっています。
2009 年、世界教会協議会は「環境における正義と環境への負荷」という声明を出しました。
その中で、核(原子力)エネルギーについて、その軍事利用と民生利用の両方に、以下の点についての懸念があると指摘しています。
・「環境への負荷」について:核兵器(原水爆)の製造・実験・配備によって影響を受ける人々への負荷と、核戦争が引き起こす「核の冬」が引き起こす飢餓に巻き込まれる
人々への負荷があること。
・ 「限りない消費の時代」について:その一部が核エネルギーに支えられているという現実があること。
・「経済的・環境学的成果」について:“原子力は安全で安価で再生可能だ”との主張を否定する研究結果があること。
2011 年、世界教会協議会は、ジャマイカで「国際エキュメニカル平和会議」を行い、「核兵器(原水爆)の完全廃絶」への呼びかけを再び強く掲げました。また、2011 年の福島第一
原子力発電所による災害を受けて、「原子力は、もはやエネルギー源としてあてにしてはいけないものであることが、再びはっきりと証明された」と宣言しました。
2013 年、世界教会協議会は総会を韓国で行い、次のように述べました。「韓半島においては、敵対と競合と軍備に彩られた安全保障よりも、互いに人間の命を守ること[shared
human security]にこそ、高い優先順位を置くようにならなければならない。」そして総会は、北東アジアにおける核発電所(原子力発電)と核兵器(原水爆)を廃絶することを求め
ました。xiii
以上のとおり、核(原子力)の危険に立ち向かって公的に声を上げるエキュメニカルな運動が形成されてきました。それは、世界教会協議会所属の教会が世界的にくり広げる取組にとして展開しています。世界の教会は、核(原子力)発電所の建設に反抗し、核兵器(原水爆)の存在に反対し、ウラン鉱山・核(原水爆)実験・核事故(原発事故)の犠牲となった人々を支援しています。それは、カナダでもインドでも、日本でもオーストラリアでも、ドイツでもとマーシャル諸島でも、展開している運動なのです。こうした地域には、多くの苦闘があります。その苦闘で、他の信仰に生きる人々との連帯もまた、生まれています。
同時にまた、世界教会協議会は、世界の教会の多様な現実を確認しています。つまり、核(原子力)エネルギーの困難な問題と向き合うにあたり、それぞれの教会が、それぞれの過程を歩んでいるということを認識しているのです。それぞれの背景に応じて生まれる異なった歩みがあるのです。そうしたそれぞれの歩みの中で、諸教会は核(原子力)エネルギーの問題に取り組んでいるのです。
「アフリカ非核地域」構想というものがあります。これは、三つのアフリカの国々に住む教会指導者たちの働きがきっかけとなり、2009年に成立した構想です。この構想は、2006 年の世界教会協議会第九回ポルトアレグレ総会が提示した「核兵器廃絶についての覚書」を実現するものとなりました。そのように、世界教会協議会が立上げた超教派的ネットワークは、声を上げる仲間の広がりを確保して行きました。そしてその広がりが、国連が 2013年に武器貿易条約を策定する際、そこに「人道と人権」という評価基準を付帯させる一助となりました。それは上述した2011年の世界教会協議会中央委員会の決議事項に準拠した運動の成果です。そのようにして今も、世界の六大陸にある諸教会は一致して、釜山での世界教会協議会総会が表明した勧告を意識しつつ、核兵器(原水爆)の廃絶を人道的に行うことを目指し、共に声を上げ続けているのです。
被造世界に奉仕することと、リスクを管理すること
キリスト者は、神の被造世界を保護し、命の神聖さを守るようにと、呼びかけられています。今日、責任感のある、包含的な(すべての人に益が及ぶ)エネルギー管理を行うために
は、これまで以上に公益と、被造世界の完全性と、人類の未来への配慮が求められているのです。エネルギーの源は、安全で効率がよく再生可能でなければならない。エネルギーの節約を考えずにエネルギーの使用を考えることは、もはや絶対にできない。今エネルギーを使うことが、未来の深刻な問題を産む、ということは、もう絶対にあってはならない。つまり、今日のエネルギーは、明日のエネルギーとしても適したものでなければならないりません。
――そうした要求が、今、私たちに突き付けられているのです。
数十年来の綿密な精査が行われて来たにもかかわらず、核(原子力)エネルギーが上に示された要求を満たしたことがありませんでした。核(原子力)エネルギーは再生可能でもないし、持続可能な資源によるものでもない。ウラン鉱が採掘され、生成し輸送され、原発が建設され運転され廃炉となって行き、そして廃棄物管理がいつまでも行われる――この一連のサイクルのすべての過程で、二酸化炭素が排出されます。「核(原子力)エネルギーはクリーンで環境に優しい」といわれています。しかしそれは、核(原子力)エネルギーの全体的な影響や結果、そしてそれへの代案のすべてを無視した主張のように見えます。
実際、核(原子力)エネルギーのコストは、負担しきれるものでない、ということが、はっきりしてきました。政府の補助金、市民への負担の移転、そして核廃棄物の長期処理に要される計算不可能なコストをこの計算に入れると、この結論はなおさら明確です。それでもまだ、その負担のすべてを包括的に計算するためには、足りていません。さらに直接・間接の補助金のすべてと、災害が起こった時の負担のすべてと、そして核廃棄物処理における安全確保のための費用のすべてを、計算に含まなければならないのです。これらのコストの一部は隠されています。またその一部は半永久的に続きます。つまり、核発電所(原子力発電所)は、他のエネルギー源と比べて、はるかに大きな資本の投資を要するものなのですxiv。
こうして、政府から原子力のために拠出されている補助金は、再生可能エネルギーの技術革新のために投下される資源を、はるかに上回ってしまうことになるのですxv。
核(原子力)エネルギーの維持のために、巨額の公的資金が費やされています。同様のことは、核兵器(原水爆)のプログラムにもはっきりと確認される特徴です。核保有国は毎年約1000億ドルを、核兵器(原水爆)のために拠出しています。欧州・大西洋地域だけを見ても、総額で 5000 億ドル、あるいはそれ以上の支出が、現在予定されている武器の改良・更新・拡充のために用いられようとしています。こうした億ドル(日本なら兆円)単位の公費が、核(原子力)エネルギー産業とも関わりを持つ私企業の巨額の収入源となっているのです。30か国・約300の銀行と証券会社そして年金基金が、核兵器関連企業 27社に投資をし、3140 億ドルの債権を所有している――これが、2013 年の状況となっています。xvi
核(原子力)エネルギーを使用すると、困難なリスクが多数付きまといます。核災害(原子力災害)は比較的低い確率でしか起こらないのですが、いったん事故が起こると、甚大な結果に至り、あるいはその結果は想定を超えるものとなります。したがって、そのリスクは高い、といわざるを得ません。
多くの政府は、こうしたリスクを避ける責任を自覚して、きちんとした政治的な決定を行っています。福島第一原発の災害を受けて、日本、スイス、スペイン、メキシコ、台湾では、核発電所(原子力発電所)の運転を停止し、建設を中止し、あるいは将来的に廃止することを約束しました。他の国々でも、核(原子力)以外のエネルギー源に頼るべきだという意志が強くなり、核兵器(原水爆)を拒否しようという意見が強くなりました。核発電(原子力発電所)に補助金を出している政府は、上で述べたような大きなリスクを受け入れ、さらに、自国民にそれらのリスクを押し付けています。リスクを恐れる故にて、民間資本が寄り付かない核産業(原子力産業)に、公的資金が投入されているのです。その規模は数十億ドルとなっています。そうした補助金を拠出する政府は更に、核事故(原子力事故)や核災害(原子力災害)に対する企業の補償責務を免除することにしています。たとえば福島第一原子力発電所事故の場合、その経済的損害は、最終的に2500億ドルから5000億ドルになると見積もられているのです。xvii
政府が核兵器(原水爆)を配備することは、人類史上最大のリスクをわざと抱えてみせることを意味しています。それはいくつもの矛盾を呼び寄せます。第一に、核武装する政府は、その核兵器(原水爆)を使用する用意があるということを、周囲が信じて疑わないようにし続けなければなりません。第二に、核武装する政府は、敵国からの攻撃を避けるためには、敵国のリスク管理に頼ることになります。第三に、核武装する政府は常に、自国が攻撃された場合には、リスク管理を自ら断念する覚悟をもっていなければならなくなるのです。これらの矛盾は、単に核武装する国が抱えるだけではありません。それは同時に、その国の敵国も巻き込んで、皆が抱える矛盾となります。それは地球の運命をかけた異様なギャンブルです。このギャンブルに、私たちは、一生涯ずっと、さらされてきたのです。こんなギャンブルを続けることは、私たちの創造主を愚弄することに他なりません。
いくつもの条約と国際的合意が作られました。それにも関わらず、核兵器(原水爆)が蔓延しています。そこに、今も絶え間ないリスクがあります。核弾頭の数は冷戦時代よりは減りました。しかし、核保有国は総じて、保有する核兵器(原水爆)を廃棄しようとしません。
むしろ、それを近代化しようとしています。そして、使用可能な核兵器(原水爆)を保有する国の数は増えています。事実、とりわけ小国にとっては、核兵器(原水爆)開発の計画を持つことだけで、それが強力な外交カードになるということが、はっきりとしてしまったのです。
原子力と核兵器(原水爆)の連結可能性と安全保障
原子力は、核兵器(原水爆)製造のための抜け道となっています。というのも、原子力の開発によって、核兵器(原水爆)製造のための施設・原料・技術が獲得されるからです。
「平和のための原子力」「核エネルギーの平和利用」などと喧伝されながら広まった原子力(核の力)は、核兵器(原水爆)の拡散を助長したのです。核の力(原子力)の民生使用という美名のもとに、軍事的意図が隠蔽される可能性があるのです。原子力開発を行うすべての国の政府が、核兵器(原水爆)用のプルトニウムを生産する、この誘惑に曝されるのです。
そして実際に、さまざまなレベルの核技術を持つ国々で、核弾頭に装備できるプルトニウムが、原子炉から生み出されるようになりました。
民間施設であれ、軍事施設であれ、核施設(原子力施設)は、テロや戦争の標的となるかもしれません。放射性物質は盗まれたり売られたりする可能性もあります。そして、放射性物質を核兵器ではない爆弾技術と掛け合わせることで、「汚れた爆弾」と呼ばれる、ある種の核兵器を作り出すこともできるのです。
現在400を超える核発電所(原子力発電所)が世界中で稼働しています。15の国々で、その四分の一以上の電気が核発電所(原子力発電所)に依存しています。したがって、核の力(原子力)を別のエネルギーに転換するのには、時間がかかるでしょう。しかしながら、代替案はもう存在しています。核発電所(原子力発電所)よりも安価・安全で、より持続可能な発電方法は、あるのです。第一に考えるべきことは節約です。現在生み出されている全エネルギーの四分の一は、節約可能だと言われています。原子力が生み出しているエネルギーの総量をはるかに超える量を、私たちは節約できるかもしれないのです。つまり、エネルギーの節約こそが、もっとも身近で、もっとも安価で、もっとも安全な、原子力に換わる代替案なのです。
原子炉を徐々に廃炉にし、核兵器を撲滅する、と考えてみましょう。その先に、新しい可能性が見えてきます。例えば、再生可能エネルギーが拡大するでしょう。核(原子力)関連産業の職が消える地域社会に、新しい支援が行われることでしょう。環境に対して責任を負った新らたなビジネスが促進されるでしょう。危険な核物質はもう生み出されなくなるでしょう。核の脅威は国際関係の舞台から撤去されるでしょう。そうしたことが、新しい可能性として見えてくるのです。そしてその先には、更なる可能性が拓けます。それは、国と国際社会の間に得られる利益とは何かを考え直す可能性です。21 世紀型の優れた統治のためにも、人類の繁栄のためにも、今私たちが獲得しようとしてやまない「利益」とはいったい何であるか、と、改めて捉えなおさなければなりません。それはちょうど、気候変動の危機に応じて、国と国際社会の中での「利益」の捉え方が細かく再編成されてきたことと、まったく同じ話なのです。
正義と平和の巡礼としての、核からの脱出
神は惜しみなく与える創造者です。神は、原子・分子のレベルから生命を呼び出して世界に豊かないのちを授ける方です。したがって、原子を分解して、死を呼ぶような、自然界に存在しない元素を産み出すことそれ自体について、深刻な倫理的・神学的省察が求められるのです。命を脅かし破壊するような原子力の使い方、それは神の被造物の誤用であり、罪深いことです。

私たちに求められる生き方とは、いのちを守ることです。生命をリスクにさらすことではありません。恐怖しながら核兵器(原水爆)で身を守って生きることも、核(原子力)エネルギーに頼って無駄遣いの中に生活することも、いのちを守ることではありません。私たちは、今、呼びかけられています――神の多様な賜物と生命の約束と調和を見なさい、その内に共同体を形成なさい、そしてそこで経済を成り立たせなさい、と。
1990 年代に、北部カナダに住むサートゥ・デネの人々は、数名の長老たちを代表として日本に送り、謝罪を行いました。自分たちの大地から採掘されたウランが 1945 年に広島と長崎を破壊した原爆に用いられたことを知ったからです。私たちも、信仰の証しとして、次のような行動をとります。
a. 軍備とエネルギーについて評価(判断)するときには、それらが人と神の被造物にどんな影響をもたらすかを、その基準とする。
b. 物質的な快適さや利便性を求める私たちの欲望のために、私たちは、自分が使っているエネルギーの源と分量がどうなっているのかを考えなくなってしまった。このことを、告白する。
c. 核兵器(原水爆)を保持することへの一切の支持を棄てる。「自己の安全を保障するために、他所の人々への大量虐殺が許される」といった理屈を、はっきり拒否する。
「ヒバクシャ」と「ピポクジャ(韓国朝鮮人の原爆被害者)」が、そして、核実験場の犠牲者が、核時代からの脱出(出エジプト)を求めて叫んでいます。この声を聴きましょう。
遺伝子の異変によって身体の形を変えられた人々がいます。核実験によって大地と海を毒された人々がいます。核事故(原発事故)によって農場や市街を汚された人々がいます。職場で被曝を受けるウラン鉱山や原発の労働者がいます。私たちは、核によって傷つけられたすべての人々の苦しみに、耳を傾けなければならなりません。悪から私たちを解放する神は、核という悪からも、私たちを解き放ち給うでしょう。全世界が破滅に瀕したその時、神はすべての被造物を含みこむ契約を開いてくださいました(創
世記 9 章)。神の霊はすべての被造物を支えてくださいます(詩編 104 編)。人々を搾取することと、被造物を破壊することとは、切り離しがたく一つです(イザヤ書23章)。――こうした神の言葉は私たちを導き、被造物の中に現れる神の臨在と神の目的に気づかせて下さいます。この神の言葉は、被造物のすばらしさを汚すことへの警告として響くのです。そうして私たちは、全ての被造物が驚異・祝祭・賛美に値するものであることを、改めて思い起こすことができるのです。
神は命と死を私たちの前に置かれます。祝福と呪いを、私たちの前に置かれます。私たちと私たちの子孫が生きられるように、神は呼びかけて言われるのです――「さあ今、命を選べ」と(申命記30章)。世界教会協議会釜山総会は、この神の「今」が切迫していることを思い出させられました。「今」は終末論的な時、「メタノイア(回心)」の時、恵みが溢れる時です。教会として、私たちは自分たちを教育し、命を選ぶように変わらなければなりません。核弾頭の眩い閃光や、原子炉の死の光を捨てて、自然世界の健全なエネルギー源――太陽、風、水、そして地熱――を選択しなければなりません。私たちは、それらのエネルギー源の中に生きているのですから。これこそ、核をはじめとする危険から脱出する道・出エジプトの道なのです。
「核(原子力)エネルギーによって、私たちは、有り余るほどの甘美な享楽を手にした。
今や私たちは、原子炉を止めることと、放射性廃棄物を処理することの、苦渋に満ちた歩みを始めなければならない。」これは、WCC釜山総会に先立ち、韓国のキリスト者が信仰の声明として公表した言葉です。「核軍備に支えられた既存の体制を守ることではなく、全ての人間と被造物を思って命を守ることの必要性を、私たちは、執拗に声明する次第である。」
と、この声明は続きますxviii
神は私たちのために命・正義・平和への道を用意されました。それは、自己の破壊と、暴力と、戦争から遠ざかる道です xix。このことを深く胸に刻み、第十回世界教会協議会釜山総会は、世界中の教会に対し、正義と平和を目指すエキュメニカルな巡礼の道に参画し、それを強めて行こうと、呼びかけました。
世界教会協議会中央委員会は、スイス・ジュネーブにて、2014 年 7 月 2~8日に会議を開き、上記のとおり、確認しました。このことを踏まえて、世界教会協議会中央委員会は、所属教会および関係する教役者および諸ネットワークに、次のようによびかけます。
1.
核(原子力)エネルギーの民生および軍事利用について、倫理的・神学的な議論を継続し、深めてください。そうして、核(原子力)エネルギーが何を目的としているのかを識別し、その本当のコストを見積り、誰の利益にかなっているのかを見極め、どの人権を侵害するかを判断し、健康と環境に与える影響を把握しよう。そして、核電力(原子力発電)を使用すること、あるいは核兵器で身を守ることの中に、何らかの証しが内在するかを考えて
みよう。
2.
環境意識に富んだ霊性を育て、実践してください。こうして個人と共同体それぞれのライフスタイルに変化をもたらしてください。エネルギー消費・効率・保全について、そして再生可能な源を持つエネルギーの使用について、明確な変化をもたらしてください。
世界教会協議会には環境意識の高い教会がある。その教会が積み上げた経験の上に、新たな世界を築いてください。
3.核兵器(原水爆)や核発電所(原子力発電)関連の製造や輸出にしがらみを持っている会社や金融機関に対して、投資の引き上げを実行し、投資を止めるよう働きかけてください。核兵器(原水爆)や核発電所(原子力発電)から、再生可能エネルギーの発展へと政府の投資を変更するよう、公的な声を上げてください。更に、核(原子力)関連の産業が終焉を迎える地域が支援されるように、政府予算が再配分されるよう、公的な声を上げてください。
4.
日本の福島第一原子力発電所災害の下に生きる人々や、太平洋の核(原水爆)実験の犠牲者等、核事故(原発事故)と核(原水爆)実験の犠牲者を、支援してください。牧会的な思いを込めて彼らと寄り添い伴走してください。法的措置と損失補償がなされるよう支援してください。同様に、核で武装している国々を国際司法裁判所に訴えたマーシャル諸島の法廷闘争を支援してください。
5.
国際人道法に準じて、そして現行の国際的義務が履行されるかたちで、核兵器(原水爆)の製造・配備・移動そして使用が禁止されることを目的に、政府間で進められている取り組みがある。その取り組みに参加するよう、各々の政府に対して呼びかけてください。
また、これらのことを求める市民社会の努力を、支持してください。
6.
市民社会や諸教会そして他の宗教団体とも連携しているエキュメニカルなネットワークと共に、公的に声を上げてください。一般の人々が参加する、開かれた連合隊体(?)、たとえば「核兵器廃絶のための国際キャンペーン(ICAN)」のようなものに、参加してください。
7.
息長く続いてきた、韓半島の非核化というエキュメニカルな目標があります。軍事行動のモラトリアム(凍結)と、核抑止力に換わる地域の集団的安全保障体制の構築という具体的な目標がそこに含まれています。こうした目標をはっきりと見据えて進められる具体的な歩みを、支援してください。
8.
アジアに展開する、あるいはアジアを標的とする軍事基地・核軍備・ミサイル防衛網の拡大に、反対してください。例えば、韓国・済州島のカンジョン村に、新しい海軍基地が作り出されようとしています。このような軍拡に対する市民の抵抗について、意識を高めてください。
世界教会協議会中央委員会は、所属教会および関係する組織、そしてネットワークに対し、世界教会協議会と共に、各国内外で声を上げ、一致して行動することを求めて、次のように呼びかけます。

 

1. 核兵器を保有せず、核廃絶を求めながら、しかし、米国の核軍備に頼っている 31 の国があります。この国々に向けて、以下の行動をとるように強く求めてください。
・ 国際人道法に従い、核兵器の廃絶を積極的に支持すること。
・自国の領域内から、すべての核兵器(原水爆)を撤去すること。
・ 核(原子力)に頼らない集団的安全保障体制を求めて話し合うこと。
2. 核兵器(原水爆)の存在も脅威も一切を拒否する「非核地帯」が、とりわけ北東アジアと中東に、新たに作り出されるよう、働きかけてください。また、すでに「非核地帯」が確保されてい
る東南アジア・太平洋・ラテンアメリカ・アフリカで、その実質が充実するよう、働きかけてください。
3. 各国政府に向けて、核発電所(原子力発電所)を段階的に撤去することを、強く求めてください。そのためにも、エネルギー効率を上げて節約を進めるためにエネルギー利用を全般的に改革
すること、炭素の放出や有毒廃棄物を削減すること、再生可能なエネルギー資源を開発することを、強く求めてください。
4. 正義と平和を目指すエキュメニカルな巡礼に貢献するものとして、一貫した、専門横断的な行動を、組み立ててください。
END NOTES
i 世界教会協議会の会員教会と関係するエキュメニカルな諸会議、そして諸宗教者による会議は、世界教会協議
会釜山総会に向けて、そしてその後に、以下の核問題に関わる声明を発表した。
・ Declaration of the International Conference on the East Japan Disaster, “Resisting the Myth of Safe Nuclear Energy: The Fundamental
Question from Fukushima”, United Church of Christ in Japan, Sendai, March 2014.
・ A Call for Peace and Reconciliation on the Korean Peninsula: Ecumenical Korea Peace Statement, United Methodist Church et al,
Atlanta, May 2013
・A Joint Statement on Peace in the Korean Peninsula, Presbyterian Church in Korea-Presbyterian Church USA, Louisville, April
2013
・ Sang-Saeng: Living Together in Justice and Peace, Pre-Assembly Nuclear Advocacy Consultation Working Paper, WCCecumenical-interfaith,
Seoul, December 2012
・ No to Nuclear Power! Faith Declaration from Fukushima, National Council of Churches in Japan, Fukushima, December 2012
・ Christians for a Nuclear-free Earth, ecumenical statement, Tokyo, May 2012
・ Faith Declaration for a World Free of Nuclear Weapons and Nuclear Energy, Korean Network for a World Free of Nuclear
Power and Weapons, Seoul, March 2012
・ For a World without Nuclear Power Plants, Anglican Church in Japan, Kyoto, May 2012
・ Asia Inter-Religious Conferences on Article Nine of the Japanese Constitution, three conference statements: Okinawa,
2012; Seoul, 2010; Tokyo, 2008
・For a World of Peace, a World Free of Nuclear Weapons, ecumenical Korean-international statement, 2010
ii Self-assured destruction: The climate impacts of nuclear war, Alan Robock and Owen Brian, Bulletin of the Atomic Scientists, 2012,
http://climate.envsci.rutgers.edu/pdf/RobockToonSAD.pdf
iii Joint Statement on the Humanitarian Consequences of Nuclear Weapons, 68th Session, UN General Assembly, 2013,
http://www.reachingcriticalwill.org/images/documents/Disarmament-fora/1com/1com13/statements/21Oct_Joint.pdf

iv Command and Control, by Eric Schlosser, Allen Lane, 2013
v Nuclear Famine: Two Billion People at Risk, International Physicians for the Prevention of Nuclear War, 2013,
http://www.ippnw.org/pdf/nuclear-famine-two-billion-at-risk-2013.pdf
vi See background paper, Timeframe of Care, Mary Lou Harley, former board member, Canadian Nuclear Waste Management
Organization
vii Final Study: Choosing a Way Forward, Canadian Nuclear Waste Management Organization, 2005,
http://www.nwmo.ca/studyreport
viii International Nuclear and Radiological Event Scale. International Atomic Energy Agency, http://www-ns.iaea.org/tech-areas/emergency/ines.asp
ix Report of the Special Rapporteur (Calin Georgescu), Human Rights Council, Geneva, 3 September 2012
x Breaking Barriers, Official Report of the Fifth Assembly, WCC, 1975, p. 128
xi Faith and Science in an Unjust World, Vol. II, WCC, 1979, p. 90
xii Church and Society Working Group Report, World Council of Churches Consultation on Nuclear Energy, Kinshasa, Zaire, 1989
xiii
Statement on Peace and Reunification of the Korean Peninsula, 10th Assembly, World Council of Churches, 2013, http://www.oikoumene.org/en/resources/documents/assembly/2013-busan/adopted-documents-statements/peace-and-reunification-of-the-korean-peninsula
xiv たとえば、米国において、同じ一ドルをエネルギー効率に投資すれば、原子力の 5 倍の電気を作り出すことができる。また、風力発電への投資は、100 倍の電力を作り出せる。ことについては、以下のサイトを参照。
Investments in wind energy can produce 100-times more electricity. Fukushima and the Future of Nuclear Power, Green Cross
International, 2011, http://www.gcint.org/sites/default/files/article/files/GCI_Perspective_Nuclear_Power_20110411.pdf
xv Ibid; 2009 年、米国では、核(原子力)への補助金は 55 億ドルであったのに、太陽光と風力への補助金は 5.5億ドルであり、その比率は10対1であった。
xvi www.dontbankonthebomb.org
xvii Costs and Consequences of Fukushima, Physicians for Social Responsibility, http://www.psr.org/environment-and-health/environmental-health-policy-institute/responses/costs-and-consequences-of-fukushima.html
xviii Faith Declaration for a World Free of Nuclear Weapons and Nuclear Energy, Seoul, Republic of Korea, March 2012
** 邦訳者の川上直哉さん(東北ヘルプ 代表)から 2014/07/17 付けで送付されたものです。**
** 邦訳の改善に寄与する方は、訳者の naoya2naoya◎yahoo.co.jp へ(◎を@に替え)ご連絡願います。**

 

世界教会協議会(WCC)中央委員会決議 2014 年 7 月 7 日 『日本国憲法第 9 条の再解釈についての声明』

「もし、私たちが生き残りたいならば、もう戦争をさせてはいけません!戦争は、私のような者を壊し、子どもたち、若者たち、女性たち、すべての者たちを踏みにじるのです。」
(生き残られた韓国の「従軍慰安婦」のお一人、87 歳になられる吉元玉(キル・ウォンオク)さんの証言から)
1947 年に制定された「日本国憲法」は、長年にわたって、『平憲法』として世界中から讃えられてきました。同憲法 9 条が意味するのは、20 世紀における日本の支配と侵略への謝罪であり、永久に続く平和のために、民主的な国となることへの希求です。事実、この憲法 9 条は、将来にわたって不戦を誓う条項であり、国家による戦争行為を禁じています。
憲法 9 条には、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と明記されています。
第二次世界大戦後、日本のキリスト教諸教会と諸団体は、日本が真に平和的な国になることを願い、『平和憲法』を守るために懸命に取り組んできました。平和を愛する国としての、戦後日本のイメージは、長年にわたり外交的な財産となり、その非軍事的貢献は、世界の至るところで積極的に受け止められてきたのです。平和的政策は、日本が近隣諸国との関係を再び広げ、またこの地域における紛争を防ぐことに役立ってきました。
日本の安倍晋三首相と内閣による、日本が同盟国との集団的自衛権を行使できるようにするため、日本国憲法 9 条を再解釈するという最近の決定は、長年にわたり多くの世界諸国にとって模範であり続けた平和の遺産に反するものです。私たちは、近年、この地域で提案されている集団的、協調的安全保障のための協定が、正しい方向であることも、あらためて確認します。
戦争放棄は、第二次世界大戦後の日本が、過ちを繰り返さないことの誓いです。第二次世界大戦中に日本軍によって強制的に性奴隷とされた東アジア中の女性たちをめぐる、悲劇の歴史は、常に戦争に対する憎悪と、罪なき弱き人々の生に破滅的な衝撃を与えたことを思い起こさせるものの一つです。憲法 9 条の解釈を変えることは、それゆえ、国際的に深刻な結果をもたらします。私たちは、日本が、同盟国や敵対国からの圧力に屈するのでは
なく、北東アジアの安定のために指導性を発揮することを求めます。
平和を愛する日本の人々、日本の諸教会にとって、集団的自衛権の行使を認める決定は、法を踏みにじる行為以外の何ものでもありません。それは、明らかに日本国憲法によって禁じられているのです。
それゆえ、2014 年 7 月 2 日から 8 日にかけてジュネーブで開催された世界教会協議会・中央委員会は:
A 日本政府が、日本国憲法第 9 条を再解釈もしくは変更しようとする方向を主導的に示していることに対し、またそれが、この地域の安全、同憲法が禁じてきたことによって提示されてきた建設的な範例、また、世界の平和と非暴力に向けた諸努力に与える衝撃に対して、重大な懸念を有していることを表明するものである(express)
B 日本政府が、紛争を解決する手段として非暴力を堅持する日本国憲法第 9 条の文言及び精神の双方を尊び、大切にすることを勧告する(call)。
C 日本政府が、『平和憲法』に従い、北東アジアにおける近隣諸国の集団的安全保障合意を構築するために働くよう促す(urge)。
D 日本政府が、自国の憲法 9 条を変更、あるいは再解釈を求める外的圧力におもねることがないよう奨励する(encourage)。
E 世界教会協議会に加盟する全教会が、平和を愛する日本の人々と、日本の諸教会の闘いに、祈りの内に寄り添うよう、招く(invite)。

 

創世記50章

2014.6.25 聖書を学び祈る会

長い期間をかけて読んできた創世記の最後の章である。ヤコブの埋葬と、ヨセフの死がふれられている。

また、この物語の大きなテーマである「神の導き」ということについて、20節のヨセフの言葉がこれを集約している(45章5~8節以来、再び)。

[神の導き]

20節の言葉は、私たちに大きな深い慰めを与える。人がなす悪も、神はそれを、時間をかけて善に変えてくださる。神の導きは、何とありがたいことか。私たちは、自分たちの過ちを神の前に懺悔し、赦されて生き、そして先のことも神に委ねて生きることができる。神がそのほころびを、繕ってくださるのである。

[葬り]

ヤコブは、息子たちによって故郷に埋葬されることができた。しかしヨセフは出エジプトの時になって、その遺体がエジプトからカナンに運ばれることになる(出エジプト13章19節、ヨシュア24章32節)。この間およそ350年の歳月を、イスラエルの民はエジプトで過ごすことになる(出エジプト12章40節には430年と書かれてあるが、実際には約350年だったと検証されている)。

このようにして、創世記は出エジプト記につながる、新しい物語への始まりでもある。

ここに登場してきた信仰の人たちは、神の御言葉を信じ、約束を目指して歩んだ、私たちの先人であった。ヘブライ11章13~16節はこのことを記している。

ヨセフは、カナンを与えると言われた神は必ず、時至れば自分たちをエジプトから引き出してくださるであろうことを信じた。

エジプトは彼らにとって過ごしやすい所であったが、彼らは、しばしそこで寄留する、旅人としての信仰を言い表わし、またそのように生きた。

神の召し出される時が来たらきっぱりと、この地を去って旅立つことを、しっかり心に留めつつ歩んだのである。

この生き方の根底には、彼らが、過ぎ行くものにではなく、神がくださる安息こそ最もよいふるさとであると、待ち望んでいた信仰の姿勢がうかがえる。

私たちもまた、見える、過ぎ行くものにではなく、もっと良い、天にあるふるさとに目を注ぎつつ、この世を歩むのである。

(以下は補足)

[15節] ヨセフの兄たちは、ヨセフが彼らに報復しないのは、父が生きていたからではなかったかと思った。

ヨセフはもうとっくに、兄たちを完全に赦していたのであるが、彼らは自分たちがなした罪のあまりにも大きいのを思って、そのように心配したのであった。

人はこのように、なかなか赦しというものに、身を委ねきることが難しい。天国への約束も、どれほどのキリスト者がその救いを確信し、揺らぐことのないものだと安心することができているだろうか。赦された喜びと、約束への信頼、またそのことへの感謝がなければ、伝道は進まないであろう。基本的なことである。

[年代] 聖書考古学者たちの研究によると、ヨセフおよびヤコブ一族がエジプトに移住した時代は、おおよそ紀元前1700年頃と推定され、いわゆるヒクソス王朝(第15~17王朝)の時代だと言われている。ヒクソスというのは「外国の支配者」という意味だと言われ、セム系の民族で、ヘブル人とは割合に近しい民族だったようである。

そういった時代に、他国人ヨセフがエジプトの宰相になったことは、歴史的にみても十分可能性のあるところであり、無理のない話である。

次回:7月2日,9日,16日(水)で「主の祈り」を学んだ後、8月末まで夏休み。

 

創世記48章、49章

 

2014.6.18 聖書を学び祈る会

48章、49章は、ヤコブ(イスラエル)の臨終について詳しく記している。ヨセフは

父のもとにいないで宰相として朝廷にいたから、父が病んだとき人が知らせてくれたので

ある。彼は急いで、二人の息子を連れて父のもとに行った。

ヤコブはヨセフを愛していたので、ヨセフの二人の子を、彼の直接の子として、しかも

長男ルベンと次男シメオンと、同じように扱うことにした。二人を養子縁組したわけであ

るが(5節)、このことはヤコブがヨセフに対し特別な愛情を持っていたことを表わして

いる。それは他の息子たちに比して、三倍の祝福であった。ヨセフの母ラケルは、ヤコブ

の最愛の妻だったからである。彼女を亡くしたことは最期まで、彼の最も大きな悲しみで

あり、彼は臨終までそのことが心に残っていた(7節)。

ヤコブは、ヨセフとその子たちを祝福した。そのとき彼は神の名を、三重の仕方で呼

んだ。第一に、父と祖父とが仕えた歴史的な神。第二に、自分を今まで養ってくださった

神。第三に、天使として現れて、危ういところから度々救ってくださった神。彼は、この

神との生ける関係が、子どもたちによっても受け継がれてゆくことを願った。羊飼いであ

ったヤコブは、神の今日までの養いを、自分の飼い主である神の恵みとして深く感じと

った。第三に挙げた天使は、神ではないが、創世記の時代においては、その区別はまだは

っきりとは意識されていなかった。また事実、神は天使を通して、ヤコブと直に関わりを

持たれたのであった。

ヤコブは、ヨセフの二人の子を祝福する際にあたり、霊感によって、次男エフライムの

子孫が長男マナセの子孫よりも強くなることを知り、そのことを預言して言った。ヨセフ

は、父の右手が自分の次男の方に置かれているのを見て(ヤコブは手を交差してまで右手

を次男の上に置いていた)、長男の方に置いてほしいと願ったとあるが、当時は右の手に

よる祝福の方が、より大きな祝福があると考えられていたからである。しかしヤコブは、

それを拒んだ(19節)。

神の選びは、人の選びまた習慣とは異なる。神はエサウよりもヤコブを、ルベンよりも

ユダを(8~12節)、ゼラよりもペレズを(38章29節)、そして今またマナセより

もエフライムを選ばれた。ルベンやシメオンよりもユダが選ばれたのは、兄弟たちの中で

ユダが最も愛情深い者だったからではないだろうか。

ユダは、自分よりも愛する者のために、自分を犠牲にしようとする者であった(43章

9節、44章33節)。また、自分の過ちを指摘された時にも、即座に懺悔のできる心の

開かれた者であった(38章26節)。彼は、己れの小ささを知り、神の偉大さと憐れみ

を乞う者であった。またそれゆえに、他者に対しても情愛深い者となれたのではないだろ

うか。彼とは対照的に、シメオンとレビは父から、その残虐さゆえに批判され、神からも

退けられる(5~7節)。主がダビデを選ばれた時、『人は目に映ることを見るが、主は

心によって見る』(サムエル記上16章7節)とある通りである。

今日でも神は、多くのよい才能ある者を用いられず、人の目からはむしろ不適当と思わ

れるような器を、ご自身のために使われることがある。それは人に誇りを与えるためでは

なく、神に栄光が帰せられるためである。聖書はそのことを教えている。

 

創世記46章、47章

 

2014.6.11 聖書を学び祈る会

ヤコブはエジプトに下る前にベエルシェバに行き、神に礼拝を捧げた。御心をうかが

うためである。以前、ヤコブの父イサクは、26章の初めには、同じように飢饉にあった

時、「エジプトに下ってはならない。わたしがあなたに示す地にとどまりなさい」との御

告げを受けた。そしてまた、今、飢饉である。しかもエジプト政府は自分に、ゴシェンと

いう肥えた土地を与えてくれると招いている。これはとてもよい話に聞こえる。もちろん

息子ヨセフには会いに行くが、招かれている通りそのままそこに住むことがよいのか、あ

るいは戻るべきなのか、簡単に決めるわけにはいかない。それで彼は、自分と一緒に行け

る者の全てを連れて、ベエルシェバに行き、父イサクの神に犠牲をささげて神のご意思を

うかがったのである。

このとき神はヤコブと一族に、恐れることなくエジプトに行き、そこに移住することを

命じられた。神はまた、ヤコブの子孫をいつまでもエジプトに置かないで、必ずいつかは

カナンの地に導き返してくださるという約束をされた。

私たちが人生を歩む道は、平坦ではないし、また時と状況によって、神がよしとされる

選択肢も同じではない。更には、将来には無くなってしまうことのために、今は労しなけ

ればならない、ということも度々起こる。行って、またやがて帰って来るという定めも、

同じようである。しかしそれでも、私たちは自分たちの一歩一歩を、神のよしとされる道

に合わせていかなければならない。いつも自分にとって楽な道だけを歩もうとするのな

ら、また都合の悪いことは負おうとしないのなら、私たちは決して神の栄光を見ることは

ないであろう。ヤコブは相当な老齢でありながら、神の意志に従おうとしたのであった。

かくしてヤコブは、息子ヨセフと劇的な再会をなした。彼らは二人とも、言葉よりも感

情がまさって物をも言えず、しばらく抱き合って、泣くばかりであった。

父は、その子の血のついた着物を受け取った時のこと、それからの悲しさを思い返した

であろう。また子は、奴隷生活と牢獄生活との苦しさが、こういった出来事を用意してい

たこととの不思議さを思ったであろう。そして二人、長い年月を経て、互いに生きて再会

できた喜びに、万感迫り、泣いたことであろう。

こうして無事に、ヤコブとその一行はエジプトに着き、ヨセフは王ファラオのところに

行って報告をし、兄弟のうちから五人を選んで謁見させた。エジプトでは五という数が重

んじられていたからである。ヨセフはエジプトにあってはエジプトの風習を、信仰を損な

うことのない限りにおいて尊重した。

イスラエルの民は、エジプト人に嫌がられることなく、ゴシェンに住むことができた。

というのは、エジプト人は牧畜を卑しんでいたので、イスラエルの民は、エジプト人の職

を奪うことなく、またむしろ喜ばれて、その地に移り住んだのである。しかしそれは、彼

らの人口がまだ少なく、エジプトに脅威を与えるほどのものではなかったからであった。

こうしてのちに、出エジプトの舞台が出来上がっていくのである。

次回:6月18日(水)創世記48,49章

創世記45章

2014.6.4 聖書を学び祈る会

ユダの言葉に、ヨセフは兄たちがもはや過去のようでないのを見た。ヨセフは込み上げ

てくる思いで、自分を制することができなくなり、官邸にいる他のすべての者をその席か

ら去らせた。兄弟たちだけになった時、彼は声をあげて泣きながら、母国語で自分がヨセ

フであることを打ち明けた。驚いたのは兄たちである。

彼らは口をきくこともできず、茫然と立ちつくした。と同時に、非常な恐れを感じた。

あんなひどい目に合わせた弟ヨセフが、エジプトの宰相ならば、自分たちはどんな仕返し

をされるかわからない。しかしヨセフは、兄たちに、自分が彼らを赦していること、また

神はこれらの出来事の中にも、恵みと導きをお与えになったことを告白する。ヨセフは兄

たちのしたことが、よかったとは決して言わない。しかし彼らの悪意でしたことですら、

神は利用し、ご自身のわざを成し遂げられたと語る。神は罪のただ中にも、罪の結果をも

用いて、恵みを備えられる。神を畏れ、信じ、神と共にいたヨセフは、自分の個人的な苦

悩を越えて、この神の恵みの摂理を体験したのである。

ヨセフは、のちに来たるべきメシア(キリスト)を予見させる型として、聖書学者たち

から見られることがある。それは、単にエジプトへ下ったという旅路の重なりを意味する

からではなく、彼は、苦しめられることによって、彼を苦しめた者を救ったということに

おいて、働き的に重なるからである。ヨセフの兄たちが彼を奴隷に売って(本章4節には

そうあるが、これは37章28~30節と比べると不正確で、おそらくは37章が正しい

内容であろう。兄たちにとってヨセフは、そんなこととは知らず、死んでしまったに違い

ないと思われていたからである。聖書にはこのように、口伝経路の違う幾つかの資料が編

集されて組み合わされる過程で、内容に矛盾が生じる場合も多々ある。読者は、注意して

読む中で、新たな発見や、ときにはそれに伴う霊的に意味深い真実に出会うことも起こり

得る)、エジプトに彼が送られたから、彼はエジプトの宰相となり、地中海世界の大飢饉

のとき彼自身と彼の父と兄弟たちを救うことができた、というわけである。

さて、ではしかし、それならば、兄たちのした悪事は、悪事ではなかったのだろうか。

またこの悪事がなかったら、神のアブラハムに対してなされた約束は、すたれたのであろ

うか。そうではない。悪は悪である。悪はなくても善はなされる。ヨセフの兄たちが罪を

犯さなくても、ヨセフは何らかの道を通って、エジプトの宰相になったであろう。しか

し、神は、罪あるところにも恵みをほどこし、また無益なものにも意味を与え、混乱ある

ところにも秩序を与えていってくれるお方である。創世記最後の章(50章)でも、兄た

ちの心配に対し、ヨセフが再び赦しを述べる場面で、20節にある通りである。

かくしてヨセフと兄たちの和解は成り、またヨセフも神によっていつの間にか成長さ

せられ、また、イスラエル全部族にとっても、更には周辺世界全体にとっても大きな救い

が、ここに起こった。まさに、ローマ書8章28節を思い起こさせる物語である。

創世記44章

2014.5.28 聖書を学び祈る会
ヨセフは兄弟たち、ことに弟のベニヤミンと再会して心から喜んだ。彼らはヨセフの家で共に食事をして、飲みかつ楽しんだ。しかし、ヨセフはまだ自らを兄弟たちに明かさない。兄弟たちは、目的の持って帰るべき食糧を与えられ、シメオンも無事返され、ヤコブが心配したベニヤミンにも何事もなく、帰路に向けて出立をすることができた。しかし、この度も彼らの金は袋の中に返され、そして末弟ベニヤミンの袋には、銀の杯がひそかに隠されていたのであった。
ヨセフに命じられた執事は、兄弟たちの一行を追いかけ、銀の杯を盗んだであろうと咎める。もちろん、ヨセフは、これを占いに使っていたとは考えられない。エジプトの知者の一人のように自らを装おうとしたのであろう。

兄弟たちは驚く。絶対にそんな物を盗んだ覚えはないと言う。もし有ったら、その者は殺されてもよい、また他の者も奴隷になると言った。しかし執事は、いや、殺すには及ばぬ、その者だけ奴隷にすると宣言する。そこで点検をするが、何とそれは彼らの末の異母兄弟、ベニヤミンの袋の中にあった。彼らは計略にかけられたことを知るが、自分たちの潔白を証明することはできない。兄弟を代表してユダは、誰かが盗みをしたとは考えないが、神が自分たちの罪をあばかれたと言う。若い時にヨセフに自分たちがしたと同じようなことを、今自分たちは受けようとしているのだと。そこで彼らは、みんなが奴隷になるという申し出をするが、執事は依然、ベニヤミンだけを奴隷にすると、これを許さず連れていく。しかし兄たちは、ベニヤミンだけが連れて行かれるのを見てはいなかった。一緒にヨセフのもとに行った。

さて、ヨセフは、同じ母ラケルより生まれた弟であるベニヤミンに特別の情をいだくとともに、こういう場合に他の異母兄弟たちがどのように対処するのかを見ようとしたのであろう。彼らは、ヨセフを捨てたように、ベニヤミンをも捨ててゆくだろうか。それとも、父が可愛がっているこのベニヤミンを、放ってはおかないであろうか。そのことはまた、かつて兄たちが自分になしたことを、今は兄たちがどう思っているかということとも繋がる。彼は、兄たちが今は悔い改め、仲良く生きている姿を、確かめたかったのであろう。ユダの弁明は、ヨセフ物語のクライマックスヘと続く。それは全く、誠実そのものであった。彼の言葉は兄弟たちの心の表れであった。

私たちも、人と和解を必要としている時には、真の悔い改めとその表明が必要である。人と人、群れと群れ、国と国とが、互いに自己を主張せず、過ちを告白し、未来のために一緒に歩み出していく思いに立つことが大切である。